亡命と脱党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「亡命と脱党」の解説
7月から8月頃にアンドラニクらフェダイはヴァン湖に達し、帆船でアクダマル島(英語版)へ渡った。そして9月に「英雄的な記憶だけを残して」ヴァンを経由しペルシアへ逃れた。アンドラニクが西アルメニアを脱出した理由についてトロツキーは、さらなる虐殺を防ぎ、現地の緊張状態を緩和するためだったとしている。さらにペルシャからカフカースを経由してヨーロッパへ渡ったアンドラニクは、1906年にジュネーブで戦術論についての著作をダシュナク党の出版社から発表した。その著作の大半は、彼自身の活動とサスーン蜂起で使用された作戦についてで占められている。 1907年2月から3月にかけて、アンドラニクはダシュナク党第4回党大会に参加するためにウィーンへ赴いた。しかしこの時、1902年以来ヨーロッパのトルコ人政治団体と交流を持っていたダシュナク党は、その中でも青年トルコ人がアブデュルハミト2世の専制を打倒することを期待して、彼らと協力関係を結んだ。アンドラニクはこのダシュナク党の決定を強く非難して党を去った。翌年にダシュナク党はアンドラニクに対して、イスタンブールへ移ってオスマン帝国の議会選挙に立候補するよう求めた。この時アンドラニクはその要請を拒否しているが、彼はすでに数年前から政治と軍事に積極的に関与することはやめていた。
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