亡命と退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 05:56 UTC 版)
「イサベル2世 (スペイン女王)」の記事における「亡命と退位」の解説
イサベル2世の気まぐれな政治や外交の失敗などで不満が高まる中、各地で反乱が起きていたが、遂に1868年、フランシスコ・セラーノ将軍とフアン・プリム将軍がカディスで蜂起した。モデラト党の政府軍はアルコレアの戦闘にて抵抗の姿勢をわずかに見せたのち降伏し、同年9月末、女王は国を追われて第二帝政下のフランスに亡命した(スペイン名誉革命(スペイン語版))。 空位となったスペイン王位の継承が問題となる中、1870年6月25日、イサベル2世はパリで王太子アルフォンソへ譲位を表明したが、プリムはこれを認めなかった。継承者を決める上では、ホーエンツォレルン家のレオポルトが候補に挙がったが、プロイセンの勢力拡大を恐れるフランスのナポレオン3世はこれを認めなかった。レオポルトは王位を辞退したが、この対立が普仏戦争の引き金となった。最終的にスペイン王位にはサヴォイア=アオスタ家のアメデーオがついた。 イサベルは退位前の3月に離婚し、1874年のボルボン王政復古(アルフォンソ12世の即位)後もフランスに住み続けた。アルフォンソ12世の代にはマドリードも訪問したが、政治に介入する動きを見せ始めたために、再び国外退去を強制され、以後は主にパリに暮らした。離婚したフランシスコとは、1902年の彼の死まで親密で、晩年はむしろ関係を深めていた。1904年4月10日に死去し、エル・エスコリアル修道院に埋葬された。
※この「亡命と退位」の解説は、「イサベル2世 (スペイン女王)」の解説の一部です。
「亡命と退位」を含む「イサベル2世 (スペイン女王)」の記事については、「イサベル2世 (スペイン女王)」の概要を参照ください。
- 亡命と退位のページへのリンク