亡命と帰郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/25 01:05 UTC 版)
「ドローレス・ゴンサーレス・カタライン」の記事における「亡命と帰郷」の解説
ヨイエスは亡命先にキューバを希望したが、キューバへの入国は叶わず、1980年4月にメキシコに亡命した。26歳のヨイエスはメキシコ国立自治大学(UNAM)の文哲学部に入学し、社会学を専攻した。メキシコではロシオ・ディアス・エスコバルがヨイエスの唯一の理解者だった。さらに国際連合(UN)の関連団体で働きはじめ、1984年に国立自治大学を卒業して大学の講師となったが、警察やメディアはヨイエスを依然としてETAの象徴としてとらえ、ヨーロッパ出国後もヨイエスがテロ活動に関与しているのではないかと疑った。さらに、スペイン国民もヨイエスの存在を神格化し、ETAを代表する女性闘士とみなした。 1982年にはバスク地方出身の男性の子を妊娠して男児を出産し、ヨイエスは故郷のヨーロッパに戻ることを決意した。1985年6月に政治難民としてフランス・パリを訪れ、秘密裏にETAのメンバーと会ってバスク地方への帰郷の可能性を探った。ETAの指導者たちはバスクから立ち退くように脅迫したが、結局1985年10月にフランス=スペインの国境を越え、12年ぶりにスペインの土を踏んだ。テロ事件に直接関与しなかった活動家がETAから脱退した場合、スペイン政府はその人物の罪を問わないとしていたため、ヨイエスはスペイン帰国の際に正式にETAからの脱退を表明した。しかし、組織を脱退して亡命したドローレスを裏切り者とみなすETAの活動家は多く、またETAを支持するバスク民族主義者の一般人にも罵倒された。ドローレスは夫・3歳の息子とともにサン・セバスティアンに定住し、かつてのETAでの活動については沈黙を通し続けた。
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