ETAでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/25 01:05 UTC 版)
「ドローレス・ゴンサーレス・カタライン」の記事における「ETAでの活動」の解説
あの時、私は初めて期待に胸を膨らませて、将来を考えることができたのです。男の世界で、女の私が一体どれだけやっていけるのだろうかという疑問が、私に国境を超えさせたのだと思います。自分がとても強く感じられ、あの頃は活力と意気込みで一杯でした。 — ヨイエス 1972年にはギプスコア県都のサン・セバスティアンに移り住んで教員養成学校に入学し、ETAの活動と並行して教師を目指した。同じ活動家のホセ・エチェベリア(ベルツァ)と恋愛関係にあったが、ベルツァは輸送中の爆弾が爆発したことにより、1973年にゲチョで死亡した。すでにヨイエスの名前はスペイン警察に知られていたため、警察が教会を取り囲んで行われたベルツァの葬儀には参列できず、妹ともに入口で見守った。初めて関係を持った恋人の死去も大きな動機となり、19歳だった1973年12月15日に教員養成学校を中退し、フランス領バスクに移り住んで本格的にETAの活動に参加するようになった。主力攻撃部隊であるベレチアックの責任者、エドゥアルド・モレーノ・ベルガレチェ(ペルトゥール)の下で活動し、将来の幹部としての教育を受けた。1974年9月13日にはETAがマドリードで起こしたカフェ・ローランド爆破事件(英語版)で、本来の標的であるグアルディア・シビル(治安警察)官の他に民間人11人が巻き添えとなった。この民間人の巻き添えをめぐってETA内で衝突が起こり、1974年には政治闘争派のETA(pm)と武力闘争派のETA(m)に分裂した。ヨイエスは手段を選ばない暴力行為には否定的だったが、ETA(m)に加わることを余儀なくされた。 ヨイエスはETA初の女性幹部となり、恩師のペルトゥールとともにETAという枠組みを越えた社会主義民族共同戦線(スペイン語版)(KAS)を立ち上げようとしていたが、その最中の1976年には恩師ペルトゥールが消息を絶った。また1978年12月21日には、ヨイエスともっとも価値観が通じ合うメンバーであり、またETA(m)の政治機関の最高責任者だったホセ・ミゲル・ベニャラン・オルデニャーナ(アルガラ)が、ETAと対立する極右組織スペイン・バスク大隊(スペイン語版)(BVE)に暗殺された。このため、ヨイエスはアルガラの地位を引き継ぎ、チョミンに次ぐETA(m)のナンバー2となった。 この時期にはイギリスのBBCの番組に出演し、ETAの活動に参加するようになってから初めて公の場に顔を出したが、ETAの活動内容を強く擁護しなかった。25歳だった1979年にはフランス警察によってフランス南東部の刑務所に1か月ほど身柄を拘束される出来事があった。1979年10月にはスペインの民主化(英語版)の過程でバスク州が誕生したが、ETAの活動はこの時期がピークであり、1979年から1980年の1年間だけで258人を殺害した。この頃のヨイエスはETAの象徴的存在・神話的存在となっていたが、自らの理想からかけ離れていく組織から離れることを決意した。 希望に燃えて入ったETAが、あんなファシズムのような組織になるなんて、彼らは、私たちが作った基本構想の解決を誤っています。彼らは、何のために人を殺すのでしょうか。そんな政党や軍事組織をなぜ私が代表しなければならないのでしょうか。 — ヨイエス
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