亡命とスイス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 05:47 UTC 版)
「カール・シューリヒト」の記事における「亡命とスイス時代」の解説
多くの音楽家が兵役に召集されたため、ドレスデンでは十分な練習をすることができなくなった。1940年代には、国家社会主義体制との相違が増大し、例えば、政治的圧力により1933年9月に離婚したユダヤ人の元妻 の海外移住を支援した。シューリヒトは1944年に収容所に送られることになり、知り合いのゲシュタポの兵士から事前に警告を受け、1944年11月にドイツを出国しスイスに亡命した。音楽ライターのフレート・ハーメルは、これはドイツからの追放に他ならないと語っている。編集者のトマス・カイルベルトは、シューリヒトの政権に対する態度を、国内亡命(Innere Emigration)とし、歴史家のマリアンネ・ブダーはトーマスカントルであるギュンター・ラミンの「困難な状況」と比較している。音楽学者ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、「好ましくない作曲家」を指揮していることに体制への抵抗を見出すことさえできるとした。一方、音楽史家のフレート・K.・プリーベルクは、シューリヒトが1944年までナチスの体制下で恩恵を受けていたとの見解から、彼の経歴をより批判的に捉えている。 シューリヒトはスイスに移住し、1944年末にヴァレー州のクラン=モンタナに定住した。ルツェルン音楽祭で知り合ったスイス人のマリア・マルタ・バンツとチューリッヒで結婚した。エルネスト・アンセルメ の誘いを受けてスイス・ロマンド管弦楽団に入団し、数年間で60回以上のコンサートに出演した。マーラーやブルックナーを多く取り上げたことで、保守的な地方の音楽家の批判に囲まれた 。
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