亡命と帰国、革命に加わる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 02:09 UTC 版)
「ヒュー・ピーター」の記事における「亡命と帰国、革命に加わる」の解説
オランダでは三十年戦争でスペイン軍と戦うオランダ軍に従軍牧師として参加する一方、1629年に亡命イングランド人がいたロッテルダム教会の牧師になり、1633年頃から独立派の思想も取り入れ、ダヴェンポートらの協力で教会をロード派批判の拠点とした。しかしロード派の追及がオランダにもおよぶと再度の亡命を余儀無くされ、1635年に北アメリカ・ニューイングランドのマサチューセッツ湾植民地へ移住した。そこでロジャー・ウィリアムズが去った後のセイラム教会の牧師として再始動、独立派教会の仕組みを更に学び、コネチカット川河口の植民事業とハーバード大学設立にも貢献した。総督ジョン・ウィンスロップと妻が親戚だったこともあり、アメリカでは大いに厚遇され充実した生活を送った。 その間、イングランドでは大きく政情が変化していた。ロードはかねてからの強権政治と弾圧を長期議会に批判され1640年にストラフォード伯爵トマス・ウェントワース共々投獄(後に処刑)、チャールズ1世の専制政治は致命的な打撃を受けた。ピーターは故郷の変化を読み取り1641年にアメリカからの使節として帰国、当初は植民地への財政支援を訴える役目だったが、やがて清教徒革命に身を投じた。 革命での活動は翌1642年6月から9月までのアイルランド遠征から始まり、再び従軍牧師として議会の派遣軍に同行しアイルランド反乱勢力と戦った(アイルランド同盟戦争(英語版))。この時カトリックに対する容赦のなさが見られ、遠征後に議会へ提出した遠征記録でいかにアイルランドを略奪・焼き討ちしたかを平然と書き記し、アイルランドをプロテスタント化することに使命を見出す考えと裏腹に、カトリックに対する排他的な態度も現れている。 同年8月からイングランドで議会派と王党派の内戦(第一次イングランド内戦(英語版))が始まると議会派に参加、この戦争でも従軍牧師としての活動を続けた。王党派に対しても敵意を向け、1645年にオリバー・クロムウェルに同行してニューモデル軍に従軍した際、10月に王党派のウィンチェスター侯爵ジョン・ポーレット(英語版)が立て籠もるベイジング・ハウス(英語版)をニューモデル軍が破壊、捕らえたウィンチェスター侯を厳しく取り調べた。1646年2月にコーンウォールへ進軍したトーマス・フェアファクスの軍にも同行、民衆に説教して王党派への非難や平和の到来を語りかけた。 一方で著述活動も開始、1643年に独立派の普及を図りアメリカの独立派牧師の著作をイングランドで出版したり、同年にオランダへ渡り議会派支持と資金援助を申し出たり、長老派の論客トマス・エドワーズ(英語版)と論争、宗教的寛容を論じる協議会に参加してアナバプテストなど分離派の統合を図った。また亡命体験を経て国際的プロテスタンティズムを身につけ、プロテスタント諸国の同盟構想を議会で演説、千年王国論を唱えてカトリック・イングランド国教会およびそれらと結びつきが深い王党派を反キリストに例え打倒を呼びかけ、議員や兵士達に大きな影響を与えた。こうしたやり方はエドワーズから「新カンタベリー大主教」「セクタリーの偉大な代理人」と揶揄されたが、ピーターは独立派の立場を貫き、1647年に議会と軍の対立が起きると軍の擁護を演説、やがてクロムウェルに接近していった。
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