亡命と帰国
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「ファクンド・カブラル」の記事における「亡命と帰国」の解説
1976年に軍政下では反体制の歌手として知られたファクンドは亡命を余儀無くされ、メキシコに渡りそこを拠点に作曲活動を続け159ヶ国で公演した。 1984年には軍事政権から民政移管したアルゼンチンへ帰国、各地で公演し、1987年にはブエノスアイレスのフェロカリル・オエステにあるサッカースタジアムで3万5千人(APの報道によると5万人とも)を集めるコンサートを催した。1994年にはArberto Cortesと共に世界ツアーを行った。晩年ほとんど目が見えない状態でこう記述した「9歳まで黙りこくっていた、14歳まで字が読めず、40歳の時悲劇的に妻を亡くし、46歳で父親と再会した。多くの伝道者は70になり最後の居所となった宿の一室で自分の人生を振り返る。」2008年のAPのインタビューに彼は「私はいつも神様に尋ねてきた、どうしてこんなに沢山贈り物をくれるのか。あなたは私に貧困、飢え、幸せ、葛藤、啓蒙など数えきれないくらいくれた。おかげでわたしはいろいろな物を見てきました。」と語った。
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亡命と帰国
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「ミゲル1世 (ポルトガル王)」の記事における「亡命と帰国」の解説
ウィーンにいる間に、彼はクレメンス・メッテルニヒの客人かつ友人として遇された。その間、1826年3月10日に、父ジョアン6世が崩御し、ミゲルの兄ペドロがペドロ4世として即位した。しかしペドロはブラジル皇帝としてすでに在位しており、したがって自身の娘マリア・ダ・グロリアに譲位するために退位した。マリア・ダ・グロリア、ポルトガル女王マリア2世は幼君であった。彼は摂政に自身の妹イザベル・マリアを任命した。ペドロは既に、自分たちの母親からあらゆる継承も受けないままで1822年にブラジルを離れたミゲルを脅かそうとしていた。ジョアン6世の死ののち、ペドロはいったんは王家の中の不和を修復し、マリア・ダ・グロリアの王位継承権を、立憲君主制を確立した新しい自由主義憲法「憲章」の下でミゲル(当時25歳)に摂政に就任するよう申し出ることで確保しようとした。この体制のもと、マリア2世とミゲルは、マリアが成人すれば結婚することになっていた。それまではミゲルは彼女の摂政を務めることになっていた。新しい憲法は立法、行政と司法との間に緩やかな王権を付与しており、100人からなる「貴族院」(Câmara dos Pares:貴族と司教と大司教から構成)、王の拒否権と間接選挙を導入していた。ミゲルは兄からの提案を受諾し、憲法の順守を宣誓し、わずか9歳の女王が結婚可能年齢になるまで待った。 イザベル・マリアの摂政府はきわめて不安定であった。すなわち不和が政府の上に君臨し、自治体の評議会なかには党派があり、閣僚間には対立があり、ついにサルダーニャ将軍の辞職後にリスボンで反乱が起きた。イザベラ・マリアの重病により、ペドロは弟ミゲルに王国をゆだねることで解決しようとした。ミゲルは受諾に関してだけは大変熱心であった。1827年にミゲルに新しい役職を与える布告が出された。そして彼はウィーンからリスボンに出発した。 リスボンにもどる途上で、彼は1827年12月30日にイギリスを訪問し逗留した。彼は海軍提督のクラレンス公(のちの国王ウィリアム4世)と彼に会うためにドックまでやってきた他の貴族院議員と面会した。不人気なトーリー政権を率いることになるウェリントン公は、彼らがミゲルに、ペドロが考案した憲法上の枠組みをうけいれることに良い影響を与えることを希望し、この訪問を立憲君主制の伝統の促進に使用した。迎賓館での昼食の後、彼は側近と騎兵将校の護衛が付いた立派な馬車に乗りロンドンのウェストミンスター宮殿に赴いた。そこでミゲルは群衆に迎えられた。ロンドンでは彼はアーリントン通りのダドリー卿の宮殿に滞在した。そこで彼はコンサートへ行き、お狩場でキジを狩り、公共事業(その一つが建設中のタミサトンネルであるが、皮肉なことに彼の訪問後、このトンネルは崩壊してしまう)を視察し、新しい友人と知己を得た。大臣、大使とジョージ4世の大臣、大使と市長らなどといった一般に貴族と呼ばれる人たちとである。 大晦日に彼はウィンザー城の王を訪問し、盛大な宴会の饗応を受けた。その後、ルートランドハウスでミゲルはイギリス在住のポルトガル人から記念メダルを受けた。イギリス訪問中は彼は厚遇されていた。
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