初期のナチ党幹部
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「アルフレート・ローゼンベルク」の記事における「初期のナチ党幹部」の解説
しかし、ベルリンは当時戦争敗北のため混乱の極みにあった。1919年初頭、ローゼンベルクは職を得るためミュンヘンに移ったが、亡命者救済委員会の世話になって暮らした。ある日、路上で妻ヒルダの友人と出会い、政治運動家で詩人のディートリヒ・エッカートと出会うよう進められた。ローゼンベルクはエッカートに対し「あなたは、エルサレムに対し戦う人間を雇いますか」と問いかけると、彼は「もちろん」と答え、世話を引き受けた。ローゼンベルクはエッカートが主宰する新聞『良いドイツ語で』に記事を書き、彼の主催するトゥーレ協会にも参加した。 1919年末頃にはアドルフ・ヒトラーと出会い、ドイツ労働者党(DAP)の党員となった。党員番号は626番だった。DAPは1920年に国家社会主義ドイツ労働者党へと改称した。ローゼンベルクはロシア語に堪能で、東方問題に詳しかったため、初期のナチ党幹部の中で一種独特の地位を築くことになった。党は12月に『ミュンヒナー・ベオバハター』紙を買い取って『フェルキッシャー・ベオバハター(「民族の観察者」の意)』と改め、ローゼンベルクはエッカートの補佐として編集助手となった。その後エッカートが体調を崩して党務から退くと、かわってヘルマン・エッサーが主筆となった。ローゼンベルクはこの人事に不満であり、素行の悪いエッサーを軽蔑したため両者の間は険悪となった。1922年に『フェルキッシャー・ベオバハター』主筆となった[要文献特定詳細情報]。 この頃、ローゼンベルクはその外交に対する視野からヒトラーに大変気に入られており、彼は「自分が意見を聞くのはローゼンベルクだけである」とクルト・リューデッケ(英語版)に告げていた。またエルンスト・ハンフシュテングルもヒトラーが彼の大きな影響下にあったと指摘している。これらの点をコンラート・ハイデン(英語版)は「エッカートとローゼンベルクはヒトラーの教師だった。ヒトラーは数年の間、彼らの口真似をしているに過ぎなかった」と評している。ただし、事務や政務の能力には欠け、党内の有力な役職はエッサーやマックス・アマンらに握られていた。1923年には『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』という綱領解説書を出版し、5万部ほどを売り上げた。
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