初期のナイキとの協力関係と決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 06:27 UTC 版)
「オニツカタイガー」の記事における「初期のナイキとの協力関係と決裂」の解説
1950年代後半、オレゴン大学の中距離走選手フィリップ・ナイト(フィル・ナイト)はアメリカのトップコーチの一人であったビル・バワーマンの指導を受けていた。バウワーマンはランニングシューズの、より軽く衝撃吸収性の高いデザインを試みたことでも知られている。ナイトはオレゴン大学卒業後、スタンフォード大学のビジネススクールに進学し、アスレチックシューズのマーケティングをテーマにMBA論文を執筆した。学位取得後の1962年11月、卒業旅行で日本の神戸に立ち寄ったナイトはオニツカのシューズの高性能と低価格に感激し、鬼塚喜八郎と面会。アメリカ西部での販売代理店契約を結んだ。1963年、ナイトはタイガーシューズの荷物を受け取った。その後、バウマンとともに500ドルずつ出資して「ブルーリボンスポーツ」(BRS)社を設立。これが現在のナイキのルーツである。「TIGER CORTEZ」はBRS社から依頼されて開発したものである。両社はBRSがアメリカ市場で売れる商品を提案し、オニツカが製品へ反映するという密接な連携を取っていた。 しかし、BRS社は自社独自のブランドシューズの展開を準備し、福岡のアサヒコーポレーション(ブリヂストンの源流)にトレーニングシューズを製造委託。1971年には自社ブランド「NIKE」の象徴である、スウッシュの入ったシューズを発売した。さらにビル・バウワーマンの案でオニツカが販売していたCORTEZを巡って両社が対立。BRSはオニツカを提訴し、弁護士費用と和解金あわせて1億数千万円をオニツカが負担し、シューズの名称をTIGER CORTEZからTIGER CORSAIRに変更する条件で和解した。
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