学位取得後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 17:53 UTC 版)
博士号を取得後、ブリルアンは雑誌Journal de Physique et le Radium の科学幹事に就任した。1932年にはコレージュ・ド・フランスの物理学教室において副責任者をつとめた。1926年、ブリルアンはグレゴール・ウェンツェル(英語版)、ヘンリク・クラマースとは独立に、今日ウェンツェル-クラマース-ブリルアン近似 (WKB近似、半古典近似とも)として知られる手法を開発した。1928年にアンリ・ポアンカレ研究所が創設されると、教授として理論物理学の部門長に任じられた。結晶中における電子波の伝搬に関する1930年の仕事では、ブリルアンゾーンのコンセプトを導入した。また、ブリルアンは量子力学的な摂動法を開発した。これはユージン・ウィグナーの手法によるものと同様に、こんにちブリルアン-ウィグナーの公式として知られるものに帰着する。 ゾンマーフェルトとの研究以来、ブリルアンのは分散関係をもつ媒質中の電磁放射に興味を持ち先駆的な仕事を行っていたため、1939年8月には電波に関するスペシャリストとして、フランスの国営機関Radiodiffusion Nationaleの機構長に就任したが、これは第二次世界大戦が開戦する1か月前のことであった。1940年にフランスは敗北し、彼は政府の一員としてヴィシーへと退いた。その半年後に退職し渡米した。 1942年までブリルアンはウィスコンシン大学マディソン校の客員教授をつとめ、その後1943年までロードアイランドはプロビデンスのブラウン大学、次の2年間はコロンビア大学の防衛研究委員会で科学研究員としてレーダーの分野に取り組んだ。1947年から1949年までハーバード大学で応用数学の教授を務め、その後1952年から1954年にはニューヨーク州ポキプシーのIBMに勤務した。この時、コロンビア大学のトーマス・J・ワトソン研究所のメンバーとしても働いた。1954年にはコロンビア大学の非常勤教授となった。その後1969年に亡くなるまでニューヨークで生活した。妻マルシェルは1986年に亡くなった。 ブリルアンはブリルアンゾーンの概念を発見し、固体物理学の礎を築いた。また情報理論を物理学とコンピュータの設計の問題に適用し、エントロピーと情報の類似性を指摘するためにネゲントロピーの概念を作り出した。 ブリルアンはマクスウェルの悪魔として知られる問題の解についても述べている。著書Relativity Reexaminedにおいて彼は相対性理論の"痛ましくも完全な再検討"が"いま絶対的に必要である"と述べた。
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