ベリャーエフ
ベリャーエフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/08 09:23 UTC 版)
ベリャーエフ(Беля́ев、ラテン翻字の例:Belyaev / Belyayev)はスラヴ語の姓。
- 人名
- アレクサンドル・ベリャーエフ - ソビエト連邦のSF作家。
- セルゲイ・ベリャーエフ - ロシア帝国、ソビエト連邦の小説家。
- ドミトリ・ベリャーエフ - ソビエト連邦の科学者、動物学者。
- パーヴェル・ベリャーエフ - ソビエト連邦の宇宙飛行士。
- ミトロファン・ベリャーエフ - ロシア帝国の音楽家、出版者。
- ミハイル・ベリャエフ - ロシア帝国の軍人。
- その他
ベリャーエフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:10 UTC 版)
「ベリャーエフ・サークル」の記事における「ベリャーエフ」の解説
「ミトロファン・ベリャーエフ」も参照 ベリャーエフは19世紀中盤から終盤にかけてのロシアにおいて芸術のパトロンになった、数多の新興の工業成金のひとりであった。そうした中にはナジェジダ・フォン・メック、鉄道王サーヴァ・マモントフ、紡績業のパーヴェル・トレチャコフなどが名を連ねる。フォン・メックが後援行為においてノブレス・オブリージュの伝統に則り匿名性を求めた一方、ベリャーエフ、マモントフ、トレチャコフは「大衆の生活に向けて目立った貢献を行うことを望んで」いた。彼らはその文化的、政治的な方向性ゆえに貴族よりも自国の才能の支援に回ることが多く、国際的な芸術家よりも愛国的な芸術家を援助する傾向が強かった。判断は芸術の中に社会的、政治的な要求を暗示しているかどうかではなく、芸術そのもののロシアらしさによってなされた。ベリャーエフもこうした時代背景に沿った形で支援すべき作曲家を決定したのである。 アマチュアのヴィオラ奏者であり室内楽に熱心であったベリャーエフは、「四重奏の金曜日」をサンクトペテルブルクにある自宅で催していた。この集まりに足しげく通っていたのがリムスキー=コルサコフである。ベリャーエフは16歳のグラズノフが作曲した交響曲第1番を耳にして以来音楽の支援者となっていたのだが、そのグラズノフはミリイ・バラキレフに見出されてリムスキー=コルサコフの下で作曲、対位法、管弦楽法を習得したのであった。グラズノフは「四重奏の金曜日」の常連となるばかりでなく、ベリャーエフによって自作を出版してもらい、西ヨーロッパへの演奏旅行をさせてもらっていた。ツアーではドイツのヴァイマルも訪れ、この若い作曲家はハンガリーの名高い作曲家でピアニストのフランツ・リストに面会したのである。 間もなくベリャーエフは他のロシアの作曲家にも興味を持ち始める。1884年にはロシアの作曲家の草分けであったミハイル・グリンカにちなみ、毎年授与されるグリンカ賞を創設した。1885年にはドイツのライプツィヒを拠点に自前の出版会社を構え、その会社からグラズノフ、リムスキー=コルサコフ、リャードフ、ボロディンらの作品を自ら出資して出版した。ライプツィヒを本拠地として出版を行うことには2つの利点があった。ひとつは当時のロシアよりも品質の高い印刷が可能であったこと、もうひとつはロシアにはなかった国際的な著作権の保護が受けられたことである。リムスキー=コルサコフの助言を受け、ベリャーエフはロシアの作曲家だけに解放された自らのコンサート・シリーズであるロシア交響楽演奏会の立ち上げも行った。リムスキー=コルサコフ作品の中でも今日西側で最も知名度の高い3作品、交響組曲『シェヘラザード』、序曲『ロシアの復活祭』、『スペイン奇想曲』はこのシリーズのためとして特別に書かれた楽曲である。多数に上るようになった支援を求める者の中から、どの作曲家に金銭、出版、演奏の援助を行うかを選定するため、ベリャーエフはグラズノフとリャードフ、リムスキー=コルサコフからなる諮問委員会を設置した。彼らが提出された作品と請願の内容を吟味し、どの作曲家が援助と衆目を集めるに値するかを助言するのである。
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