ベリャーエフと彼のサークルとは? わかりやすく解説

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ベリャーエフと彼のサークル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)

チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「ベリャーエフと彼のサークル」の解説

ベリャーエフ・サークル」も参照 ベリャーエフ19世紀中盤から終盤にかけてのロシアにおいて芸術のパトロンになった数多新興工業成金ひとりであった。そうした中にはナジェジダ・フォン・メック鉄道王サーヴァ・マモントフ紡績業パーヴェル・トレチャコフなどが名を連ねる。フォン・メックが後援行為においてノブレス・オブリージュ伝統則り匿名性求めた一方ベリャーエフマモントフトレチャコフは「大衆の生活に向けて目立った貢献を行うことを望んで」いた。独力で富を築いた彼らはスラヴ主義的な国家観持ちロシアさらなる大きな栄光もたらされることを疑わなかった。彼らはこの信条ゆえに貴族比べて自国才能支援に回ることが多く国際的な芸術家よりも愛国的な芸術家援助しようとする傾向強かった。その判断芸術作品中にどのような社会的な要求暗示させたかではなく、「彼らが暮らし慣れ親しんだ風景日常生活人物像特有の側面共感的に、巧みに描き出しているかどうか」によってなされた。これはロシア社会芸術界中心席巻するようになっていた愛国心ロシア至上主義平行する動きだったのであるアマチュアヴィオラ奏者室内楽に熱心であったベリャーエフは「四重奏金曜日」をサンクトペテルブルクにある彼の自宅主催したこうした集まり足しげく顔を出したのが1882年モスクワベリャーエフ出会ったリムスキー=コルサコフである。ベリャーエフグラズノフ交響曲第1番を耳にして以来音楽パトロンとなっていた。グラズノフは「四重奏金曜日」の常連となるばかりでなく、ベリャーエフによって自作出版してもらい、西ヨーロッパへの演奏旅行をさせてもらっていた。この若き作曲家ツアー訪れたドイツヴァイマルにおいてフランツ・リスト面会しているほか、同地では第1交響曲演奏行われた。 まもなくベリャーエフは他のロシア作曲家にも興味を示すようになる1884年にはロシア作曲家草分けであるミハイル・グリンカにちなみ、毎年授与されるグリンカ賞を創設したロシアにおける音楽出版低い品質同国での出版物国外で著作権保護受けられないことに嫌気がさした彼は、1885年ドイツライプツィヒに自らの音楽出版社立ち上げる。この会社からはグラズノフリムスキー=コルサコフリャードフボロディン楽曲自費出版され、1917年十月革命に至るまでの間、ロシア作曲家だけを扱いながらそのカタログ2000超える作品を誇ることになる。リムスキー=コルサコフ助言従いベリャーエフは自らのコンサートシリーズであるロシア交響楽演奏会主催することにもなるが、これもロシア作曲家だけのための催しであったリムスキー=コルサコフ作品中でも今日西側で最も知名度の高い3作品交響組曲シェヘラザード』、序曲ロシアの復活祭』、『スペイン奇想曲』もこのシリーズのためとして特別に書かれ楽曲である。このシリーズ十月革命勃発まで続けられ1910年までの間にここで初演された作品の数は165数えた多数上るようになった支援求める者の中から、どの作曲家金銭出版演奏援助を行うかを選定するため、ベリャーエフグラズノフリャードフリムスキー=コルサコフからなる諮問委員会設置した提出され作品請願の内容を彼らが吟味し、どの作曲家援助衆目を集める値するかを助言するのである。3人はともに職務果たしたが、リムスキー=コルサコフが「事実上グループ指導的立場立った。彼自身純粋に音楽的な事柄により、私がベリャーエフ・サークルまとめ役となった」と記している。「主催者であるベリャーエフも、私を組織長と看做しあらゆることを相談するとともに、誰に対しても私が長であると述べていた。」 グラズノフリャードフリムスキー=コルサコフ元に集った作曲家集団は、外面的にはかつてロシア5人組がそうであったのと同じく愛国的であった5人組同じく彼らは余所にないロシア様式クラシック音楽信奉しており、それはバラキレフボロディンリムスキー=コルサコフ音楽の例にみられるように民謡、また異国風の旋律和声リズム要素用いたものであった一方で5人組とは異なりサークル作曲家たちは作曲におけるアカデミックな西欧方法論立脚した知識必要性固く信じていた。西洋作曲技法必要性リムスキー=コルサコフサンクトペテルブルク音楽院在職中、彼らの多く教え込んだのであるバラキレフ率いた5人組の「革命的な作曲家たちと比較してリムスキー=コルサコフ見出したのはベリャーエフ・サークル面々が「進歩的で(中略)それに倣って技術的な完璧さに非常な重きを置いているが(中略新しい路を破壊してしまった。速度はより遅いかったとはいうものの、それはより安全な形だった。」

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