ベリャーエフと彼のサークル
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「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「ベリャーエフと彼のサークル」の解説
「ベリャーエフ・サークル」も参照 ベリャーエフは19世紀中盤から終盤にかけてのロシアにおいて芸術のパトロンになった、数多の新興の工業成金のひとりであった。そうした中にはナジェジダ・フォン・メック、鉄道王サーヴァ・マモントフ、紡績業のパーヴェル・トレチャコフなどが名を連ねる。フォン・メックが後援行為においてノブレス・オブリージュの伝統に則り匿名性を求めた一方、ベリャーエフ、マモントフ、トレチャコフは「大衆の生活に向けて目立った貢献を行うことを望んで」いた。独力で富を築いた彼らはスラヴ主義的な国家観を持ち、ロシアにさらなる大きな栄光がもたらされることを疑わなかった。彼らはこの信条ゆえに貴族に比べて自国の才能の支援に回ることが多く、国際的な芸術家よりも愛国的な芸術家を援助しようとする傾向が強かった。その判断は芸術作品の中にどのような社会的な要求を暗示させたかではなく、「彼らが暮らし、慣れ親しんだ風景、日常生活、人物像に特有の側面を共感的に、巧みに描き出しているかどうか」によってなされた。これはロシア社会、芸術界の中心を席巻するようになっていた愛国心、ロシア至上主義に平行する動きだったのである。 アマチュアのヴィオラ奏者で室内楽に熱心であったベリャーエフは「四重奏の金曜日」をサンクトペテルブルクにある彼の自宅で主催した。こうした集まりに足しげく顔を出したのが1882年にモスクワでベリャーエフと出会ったリムスキー=コルサコフである。ベリャーエフはグラズノフの交響曲第1番を耳にして以来、音楽のパトロンとなっていた。グラズノフは「四重奏の金曜日」の常連となるばかりでなく、ベリャーエフによって自作を出版してもらい、西ヨーロッパへの演奏旅行をさせてもらっていた。この若き作曲家はツアーで訪れたドイツのヴァイマルにおいてフランツ・リストに面会しているほか、同地では第1交響曲の演奏も行われた。 まもなくベリャーエフは他のロシアの作曲家にも興味を示すようになる。1884年にはロシアの作曲家の草分けであるミハイル・グリンカにちなみ、毎年授与されるグリンカ賞を創設した。ロシアにおける音楽出版の低い品質と同国での出版物が国外で著作権の保護を受けられないことに嫌気がさした彼は、1885年にドイツのライプツィヒに自らの音楽出版社を立ち上げる。この会社からはグラズノフ、リムスキー=コルサコフ、リャードフ、ボロディンの楽曲が自費出版され、1917年の十月革命に至るまでの間、ロシアの作曲家だけを扱いながらそのカタログは2000を超える作品を誇ることになる。リムスキー=コルサコフの助言に従い、ベリャーエフは自らのコンサートシリーズであるロシア交響楽演奏会を主催することにもなるが、これもロシアの作曲家だけのための催しであった。リムスキー=コルサコフ作品の中でも今日西側で最も知名度の高い3作品、交響組曲『シェヘラザード』、序曲『ロシアの復活祭』、『スペイン奇想曲』もこのシリーズのためとして特別に書かれた楽曲である。このシリーズは十月革命勃発まで続けられ、1910年までの間にここで初演された作品の数は165を数えた。多数に上るようになった支援を求める者の中から、どの作曲家に金銭、出版、演奏の援助を行うかを選定するため、ベリャーエフはグラズノフとリャードフ、リムスキー=コルサコフからなる諮問委員会を設置した。提出された作品と請願の内容を彼らが吟味し、どの作曲家が援助と衆目を集めるに値するかを助言するのである。3人はともに職務を果たしたが、リムスキー=コルサコフが「事実上」グループの指導的立場に立った。彼自身「純粋に音楽的な事柄により、私がベリャーエフ・サークルのまとめ役となった」と記している。「主催者であるベリャーエフも、私を組織長と看做してあらゆることを相談するとともに、誰に対しても私が長であると述べていた。」 グラズノフ、リャードフ、リムスキー=コルサコフの元に集った作曲家集団は、外面的にはかつてロシア5人組がそうであったのと同じく愛国的であった。5人組と同じく彼らは余所にないロシア様式のクラシック音楽を信奉しており、それはバラキレフ、ボロディン、リムスキー=コルサコフの音楽の例にみられるように民謡、また異国風の旋律、和声、リズム要素を用いたものであった。一方で5人組とは異なり、サークルの作曲家たちは作曲におけるアカデミックな、西欧の方法論に立脚した知識の必要性も固く信じていた。西洋の作曲技法の必要性はリムスキー=コルサコフがサンクトペテルブルク音楽院在職中、彼らの多くに教え込んだのである。バラキレフが率いた5人組の「革命的な」作曲家たちと比較して、リムスキー=コルサコフが見出したのはベリャーエフ・サークルの面々が「進歩的で(中略)それに倣って技術的な完璧さに非常な重きを置いているが(中略)新しい路を破壊してしまった。速度はより遅いかったとはいうものの、それはより安全な形だった。」
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