芸術のパトロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:01 UTC 版)
「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「芸術のパトロン」の解説
カトリーヌは学識のあるルネッサンス諸侯の権威は武力と同じぐらいに文字に依拠するものであるという人文主義者の思想を信じていた。彼女はメディチ家の先祖たちやヨーロッパの主導的な芸術家たちを招聘した義父フランソワ1世の影響を受けていた。内乱と王権衰退の時代に、彼女は豪華な文化的装飾によって王室の威信を高めようとした。王室財政を支配できるようになると、彼女は芸術のパトロン活動を開始し、それは30年間続いた。この時代、彼女は芸術全分野にわたる独特の後期フランス・ルネッサンス(英語版)を主宰した。 カトリーヌの没後に作成されたオテル・ド・ラ・レーヌ(フランス語版)の財産目録は、彼女が熱心な収集家であったことを示している。列挙された芸術作品にはタペストリー、手書き地図、彫刻、豊富な織物、黒檀の家具、象牙細工、中国やリモージュの陶器が含まれていた。また、カトリーヌの存命時に流行した数百の肖像画があった。肖像画コレクションの多くはジャン・クルーエ(1480年 - 1541年)や息子のフランソワ・クルーエ(1510年頃 - 1572年)の作品である。フランソワ・クルーエはカトリーヌの家族全員や数多くの廷臣たちの肖像画を描いている。カトリーヌの没後、フランスの肖像画の質は衰えた始めた。後期ヴァロワ朝に後援され、フランソワ・クルーエによって絶頂に達した学派は1610年までに消滅している。 カトリーヌ・ド・メディシスの宮廷における肖像画以外の絵画についてはわずかしか知られていない。名の知られた画家は、彼女の人生の最後の20年間において現れたわずか2人に過ぎない。少数の作品しか現存していないクザン(英語版)(1522年頃 - 1594年)と、フォンテーヌブローのプリマティッチオのもとで働いた後にカトリーヌの宮廷画家となったアントワーヌ・カロン(英語版)(1521年頃 - 1599年)である。儀式への愛情と虐殺への没頭を伴うカロンの真に迫ったマニエリスムは、宗教戦争期のフランス宮廷の神経質な雰囲気を反映している。 一連の『季節の勝利』などのカロンの作品の多くは、カトリーヌの宮廷で有名だった祝祭に影響された寓意的題材である。彼がデザインしたヴァロワ・タペストリー(英語版)は、カトリーヌによって主宰された祝宴(fêtes)、行楽そして「壮大な」エンターテインメントである模擬戦闘を祝ったものである。これらは1564年にフォンテヌブローで催された催事、1565年にバイヨンヌで開かれたスペイン宮廷との会合、そして1573年にアンジュー公アンリにポーランド王位を提供するポーランド使節のテュイルリー宮訪問を描写している。伝記作家レオニー・フリーダは「誰でもなくカトリーヌこそが、後にフランス王室が有名になる幻想的なエンターテインメントを新たに開いた」と評した。 ミュージカルショーはとりわけカトリーヌの創造的才能を示す場となった。これらは通常、王国の平和や神話的主題に基づいたイデアに捧げられたものだった。これらのイベントに必要な脚本、音楽そして舞台効果をつくるために、カトリーヌは当時の主要な芸術家や建築家たちを雇った。歴史家フランセス・イエイツは彼女を「祝祭における偉大な創造的芸術家」と呼んだ。カトリーヌは伝統的なエンターテインメントへ段階的に変化を取り入れていった。例えば、彼女は各々のエンターテインメントのクライマックスとなるショーにおけるダンスの重要性を増やした。独特の新たな芸術形態であるバレ・ド・クールがこれらの創造的な発展から現れた。1581年に上演された『王妃のバレエ・コミック(英語版)』は、ダンス、音楽、詩、および作曲が総合されており、学識者たちから最初の本物のバレーと評価されている。 カトリーヌ・ド・メディシスが最も愛した芸術は建築であった。「メディチ家の娘として、彼女は建築への情熱と偉大な業績を死後に残す欲望に駆り立てられていた」とフランスの歴史家ジャン・ピェール・バヴェロは述べている。アンリ2世の死後、彼女は一連の壮大な建築プロジェクトを通して夫の記憶を不滅のものとし、ヴァロワ朝の偉大さを高めるべく着手した。これらの業績にはモンソー=レ=モー城、サン=モール=デ=フォッセ、そしてシュノンソー城が含まれる。カトリーヌはパリにチュイルリー宮とオテル・デ・ラ・レンヌの二つの宮殿を造営した。彼女はこれら全ての建築計画の設計と監督に深く関わっている。 カトリーヌは彼女の石造物に刻まれた愛情と悲嘆のエンブレムを有していた。詩人たちは彼女を新たなアルテミシア2世(ハリカルナッソスにマウソロス霊廟を建立した古代の王妃)であると褒め称えた。野心的な新築礼拝堂の中央装飾として、彼女はサン=ドニ大聖堂に壮麗なアンリ2世の墓廟を建立した。これはフランチェスコ・プリマティッチオ(1504年 - 1570年)によって設計され、ジェルマン・ピロン(英語版)が彫刻している。美術史家アンリ・ゼルネールはこの墓碑を「ルネサンス期における最後のそして最も優れた王墓」と評した。また、カトリーヌはジェルマン・ピロンにアンリ2世の心臓を納めた大理石の彫刻を製作させた。礎石に彫られたロンサールの詩文には「このような小さな壺にかくも大きな心臓が納められていることに驚くなかれ、アンリ2世の本物の心臓はカトリーヌの胸にあるのだから」と書かれている カトリーヌは莫大な資金を芸術に費やしたが、彼女が後援した者たちのほとんどは恒久的な名声を残すことはなかった。彼女の没後、ほどなくしてヴァロワ朝が断絶したことにより、芸術のプライオリティが変化したためである。
※この「芸術のパトロン」の解説は、「カトリーヌ・ド・メディシス」の解説の一部です。
「芸術のパトロン」を含む「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事については、「カトリーヌ・ド・メディシス」の概要を参照ください。
- 芸術のパトロンのページへのリンク