ナジェジダ・フォン・メックとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ナジェジダ・フォン・メックの意味・解説 

ナジェジダ・フォン・メック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 08:41 UTC 版)

ナジェジダ・フォン・メック

ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メックロシア語: Надежда Филаретовна фон Мекк, Nadezhda Filaretovna von Meck, 1831年1月29日 - 1894年1月1日)は、ロシア出身の資産家。旧名はナジェジダ・フィラレートヴナ・フロロフスカヤロシア語: Наде́жда Филаре́товна Фроло́вская, Nadezhda Filaretovna Frolovskaya)。

スモレンスク州の地主の娘として生まれ、父親の影響で音楽に親しんだ。

1847年モスクワ在住の鉄道王カール・フォン・メックと結婚したが、1876年に夫が亡くなって多額の財産を相続した。

作曲家チャイコフスキーパトロンとして、一度も会うことが無いまま文通を繰り返し、年間6000ルーブルもの資金援助を1877年から14年間にわたって続けた。彼の交響曲第4番はフォン・メック夫人に捧げられている。

また少年時代のドビュッシーを自分の娘のピアノ教師として雇い、長期旅行に同伴させた。この際、夫人の長男および次男とドビュッシーがピアノ三重奏を組んで彼のピアノ三重奏曲を演奏したり、またドビュッシーがピアノ連弾用に編曲したチャイコフスキーの『白鳥の湖』を演奏している。

夫人はドビュッシーの習作ピアノ曲「ボヘミア舞曲」をチャイコフスキーに郵送したが、1ヵ月後に返ってきたチャイコフスキーの返事は「とてもかわいらしい曲ですが、短すぎます」という未熟を諭す冷淡なものだった。この曲はドビュッシーの死後まで出版されなかった。

その後、ドビュッシーは夫人の娘と恋愛関係に陥り、それを知った夫人は激怒して彼を解雇した。この顛末はチャイコフスキーへの手紙にも報告されている。

晩年になると精神を病み、破産したと思い込んで、1890年にチャイコフスキーへの資金援助の打ち切りと共に交際の終焉を手紙で告げた。チャイコフスキーは交際の継続を求めたが断られ、自分はただ金で買われていただけだったのではないか、と彼女を恨んだという。なお、この絶縁には彼女の長年の秘書で女婿でもあったヴワディスワフ・パフルスキの意図が働いていたとも言われている。

1894年、静養先のニース結核のため死去した。

その他

2024年の大学入学共通テスト「世界史B」でチャイコフスキーとフォン・メックの手紙が出題された。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナジェジダ・フォン・メック」の関連用語

ナジェジダ・フォン・メックのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナジェジダ・フォン・メックのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナジェジダ・フォン・メック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS