二つの戦争の狭間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 15:39 UTC 版)
「セルゲイ・ボルトキエヴィチ」の記事における「二つの戦争の狭間」の解説
コンスタンティノープルでは、スルターン付きの宮廷ピアニストであるイレン・イレゲイ(Ilen Ilegey)の助けもあり、ボルトキエヴィチは再び演奏を始め、教育活動も再開した。彼は数多くの大使館員の間で知れ渡るようになり、その中でユーゴスラビア大使の妻であったナタリヤ・シャポニッチ(Natalie Chaponitsch)と親しくなって、彼女に「3つの小品 Op.24」(1922年)を献呈している。彼女はボルトキエヴィチのために大使館らの音楽集会の幹事をし、また彼女とその夫の助力によりボルトキエヴィチ夫妻はユーゴスラビアへのビザを得ることができた。ボルトキエヴィチ夫妻はベルグラード経由でソフィアへ赴き、そこでオーストリアのビザの発給をしばらく待つことになる。そして1922年7月22日、夫妻はオーストリアに亡命する。 元々、ボルトキエヴィチはウィーンではなく、バーデンに住むことにしており、そこに1923年まで留まっていた。その後、彼はウィーンに移り住んで居を構え、5年に渡ってそこで暮らす。1925年にはついにオーストリアの公民権を得た。 1928年にボルトキエヴィチは6ヶ月間パリに滞在し、戻ってベルリンに住むようになる。1933年には、彼は再度ドイツから逃れざるを得なくなる。ロシア人であった彼は、今度はナチス迫害に晒され、あらゆる演奏会のプログラムからは彼の名前が削除された。彼はウィーンに戻り、1935年にブレッヒトゥームガッセ(Blechturmgasse)1の5を居住地とする。彼はその後、生涯そこに住み続けることになる。この頃にボルトキエヴィチは深刻な資金難に苦しみ、何度となく友人のヒューゴ・ファン・ダーレンに資金援助を依頼した。このピアニストは、いつでも気前良くボルトキエヴィチを援助した。また、この頃にボルトキエヴィチはチャイコフスキーとフォン・メック夫人の間に交わされた書簡を、ロシア語からドイツ語に翻訳した。これらの書簡は「チャイコフスキーとナジェジダ・フォン・メックの奇妙な愛情 Die seltsame Liebe Peter Tschaikowsky's und der Nadjeschda von Meck」(Köhler & Amelang, Leipzig 1938)という題で出版された。ファン・ダーレンはボルトキエヴィチの本をオランダ向けに校正し、「Rondom Tschaikovsky's vierde symphonie 」(De Residentiebode, 1938)と題して出版した。
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