十三人の合議制の実態と頼家の実績
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「源頼家」の記事における「十三人の合議制の実態と頼家の実績」の解説
十三人の合議制は、頼家が訴訟を「直に聴断」するのを停止し、北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたもので、通常は、就任早々頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた。だが、現実には頼家による親裁の事例が存在する上、この体制自体実態不明な部分も多い。そもそも、その伏線とされる『吾妻鏡』建久14年4月12日条にて「幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始め」と評された後藤基清の讃岐守護職罷免は、朝廷での処分に対応した措置であり、続く同年3月23日の伊勢神宮領6箇所の地頭職停止にしても、祈祷目的や本所領家に配慮した地頭職の停止や寄進は頼朝時代から少なくはなく、失政とするには説得力に乏しい。 近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、親裁自体を否定してはいないとされる。すなわち、内実は訴訟の取次を13人に限るという制度的な枠を作ったもので、直前の問注所開設と機能の拡大、頼家期から進んだ訴訟機構としての政所の整備、そして先述の宿老の役割を考えても、若い頼家の権力を補完する体制が整えられたものとすべきである。 頼家の親裁の例として、正治2年(1200年)の陸奥国新熊野社領の堺相論が知られる。『吾妻鏡』同年5月28日条によれば、この訴訟に於いて、頼家は係争地の絵図の中央に線を引き、「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」と述べたという。「暗君」を象徴する事例である。 だが、頼家が本当に暗君であったかは疑問が残り、『吾妻鏡』によれば同年8月には側近の僧・源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向しており、実際には上記の方針が貫かれたわけではない。また、文書史料での頼家は、領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する一方、領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がないことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断は行なっている。 『吾妻鏡』建久10年8月10日条によれば、頼家は陸奥・出羽国の地頭の所務は、頼朝の決定の如く藤原氏時代の旧規を守るよう命じ、堺相論などの紛争を「非論」として抑制している。つまり、上記の陸奥国における堺相論は頼朝時代の定めを否定するに等しい「非論」に他ならなかった、ということになる。とすると、頼家の主眼はむしろ、代替わりに伴い増加した紛争や訴訟を抑えることや、頼朝時代の決定を遵守させることにあったのだと考えられる。 また、正治2年(1200年)に、国衙への介入等で後鳥羽院の逆鱗に触れた佐々木経高を、他の守護職等も合わせて停止しているように、正治元年(1199年)末から建仁2年(1202年)にかけて、頼家は守護の職務の制限や確定に積極的に取り組んでいる。これと並んで頼家が熱心だったのが、『吾妻鏡』正治元年9月17日条や同2年正月15日条に見えるように、京都大番役の勤仕を巡る問題であり、頼家は大番役の催促を何度も守護に厳命している。 以上のことを考慮すると、正治元年に東国の地頭に荒野の開発を命じ、武蔵国の田文を整えさせたことや(『吾妻鏡』正治元年11月30日条)、翌年に政所に命じて諸国の田文を提出させ、頼朝挙兵以後の新恩の所領で500町を超えた分を召し上げ、所領を持たない者に分け与えようとした件(『吾妻鏡』正治2年12月28日条)も注意が必要である。特に後者は、宿老の反対で実施は見送られるが、中小御家人の経済基盤の確保という側面を有しており、負担を課す上で必要な措置とも言える。賦課対象の把握・確保に繋がるこれらの取り組みは、御家人の編成と大番役の整備に併行する政策であったと考えられる。 守護の職務の限定と御家人制の再編、京都大番役の御家人役化は、頼朝晩年の建久年間に朝廷との交渉の中で行われていたことであり、頼家による諸政策は、頼朝末期の路線を継承した上で、それを確定して制度的に定着させる道筋を作った。
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