静寛院和宮像とは? わかりやすく解説

静寛院和宮像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:54 UTC 版)

兵庫県立夢野台高等学校」の記事における「静寛院和宮像」の解説

1934年昭和9年4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され教職員生徒登下校時にその前で必ず最敬礼行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年1933年昭和8年11月20日増上寺和宮奉賛会理事桑原瑞龍による講演開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京増上寺にある皇室下賜銅像同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけはのに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝強かったと言われている。 太平洋戦争末期物資窮迫強まった時代金属の提出小学校二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられ数少ないであった。しかし終戦後GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し占領政策終了するサンフランシスコ講和条約締結後1952年昭和27年4月までその状態は続いた占領時代終わり源平合戦湊川の戦い関わりのある須磨区一ノ谷」の土地所有者楠公精神共感し1954年昭和29年4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道建立。この時に静寛院和宮像は占領時代隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれ経緯については不明)。その後2000年12月一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。 なお、この像については戦中混乱期から現在まで不明な点も多く一の谷公園内安置されている像が本当に当校県二時代に置かれていた和宮像であるのか、確証が無いのが実情である(市二での像、または県一での像という可能性否定できない)。事実一の谷公園内皇女和宮像の説明文では 「なぜこの像が山中にあったのか不明である」 「県一、県二、市二の三女学校和宮像を寄贈した。(中略戦争中金属提供から免れたその内の一体だと思われると書かれてある。

※この「静寛院和宮像」の解説は、「兵庫県立夢野台高等学校」の解説の一部です。
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