石原莞爾中将を予備役編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
「東條英機」の記事における「石原莞爾中将を予備役編入」の解説
石原莞爾(陸士21期)は、鋭く対立していた東條によって閑職に追われ、さらに予備役に追いやられたとされる。 「石原莞爾#ふたたび関東軍へ・東條英機との確執」、および「石原莞爾#予備役編入」も参照 一方で、藤井非三四は、 少将で関東軍参謀副長を務めていた石原が、昭和13年(1938年)6月に病気のために参謀副長を辞任すると申し出、人事発令を待たずに勝手に帰国・入院するという暴挙に出たこと。 石原が、何の処分も受けずに、昭和13年12月に舞鶴要塞司令官に補任されたこと。 を指摘し、 「それでも東条は石原の豊かな才能を基本的に認めていた。和解の手を差し伸べたが石原が応じなかったのだろう」 「よく、この人事〔石原の、舞鶴要塞司令官への補任〕は石原莞爾を閑職に追いやった非情なものと語られるが、それは間違いで、これは板垣征四郎陸相の友情あふれる温情人事だった。勝手に帰国したことのほとぼりが冷めるまで舞鶴におき、中将、師団長への道を開いてやったのだ。事実、翌〔昭和〕14年8月に石原は京都の第16師団長に上番している。」 と述べ、「石原は、鋭く対立していた東條によって、舞鶴要塞司令官と言う閑職に追われた」という説を否定している。 なお、藤井は「石原の、昭和16年(1941年)3月の予備役編入」については「見解を保留する」という旨を述べている。
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