石原美知子との婚姻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
小山初代との離婚後、師匠である井伏鱒二は「太宰君の生涯の中で最もデカダンスな生活」と評したように、極めて乱れた生活を送っていた。加えて実家の兄、津島文治が1937年4月に行われた第20回衆議院議員総選挙で選挙違反に問われて10年間の公民権停止となり、全ての公職の辞退と蟄居を余儀なくされる。これまで実家からの仕送りを頼りにしてきた太宰にとって、実家の危機は仕送り継続の困難に繋がった。その上、同時期に太宰の姉が病死し、甥が自殺した。加えてかつて小山初代との不貞問題を起こした義弟の小舘善四郎も自殺未遂をしており、太宰の精神的危機はより深くなった。 太宰本人も乱れ切った私生活に危機感を覚え、そこからの脱出を図ったものの、自力では抜け出せなかった。このような中、太宰と石原美知子との結婚話が持ち上がった。乱れた自らの生活に危機感を感じていた太宰は、縁談に極めて積極的であった。表向きはこれまでの不行跡を理由に結婚問題への不干渉を貫いていた実家の長兄、次兄も、太宰にわからない形で婚姻に向けての根回し、費用負担を行っていた。師匠であり後見人的立場にあった井伏鱒二も、結婚後の太宰の行く末に大きな不安を抱きながらも「ふたたび私が破婚を繰り返したときには、私を完全な狂人として捨ててください」。とまで書いた誓約書を受けて、結局、結婚の成立に力を貸すことになった。 1939年1月8日、太宰は石原美知子と婚姻する。結婚直前から直後にかけて「富嶽百景」の正編、続編を執筆しており、結婚後の太宰は安定した創作活動を行うようになった。
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