富岳百景
作者太宰治
収載図書少年少女日本文学館 12 走れメロス・山椒魚
出版社講談社
刊行年月1986.7
収載図書昭和文学全集 第5巻
出版社小学館
刊行年月1986.12
収載図書走れメロス
出版社講談社
刊行年月1988.6
シリーズ名講談社英語文庫
収載図書太宰治全集 2
出版社筑摩書房
刊行年月1988.9
シリーズ名ちくま文庫
収載図書走れメロス
出版社講談社
刊行年月1989.5
シリーズ名講談社 青い鳥文庫
収載図書走れメロス
出版社旺文社
刊行年月1990.3
シリーズ名必読名作シリーズ
収載図書太宰治 井伏鱒二
出版社講談社
刊行年月1995.4
シリーズ名ポケット日本文学館
収載図書富岳百景・走れメロス・ヴィヨンの妻・家庭の幸福・グッド・バイ
出版社三心堂出版社
刊行年月1998.10
シリーズ名大活字文芸選書
収載図書走れメロス・おしゃれ童子
出版社集英社
刊行年月1999.5
シリーズ名集英社文庫
収載図書斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇
出版社文芸春秋
刊行年月2000.10
シリーズ名文春文庫
収載図書走れメロス―ほか
出版社きもつき出版
刊行年月2001.9
シリーズ名名作シリーズ
収載図書走れメロス
出版社日本図書センター
刊行年月2002.3
シリーズ名太宰治文学館
収載図書走れメロス
出版社偕成社
刊行年月2002.5
シリーズ名偕成社文庫
収載図書富嶽百景・走れメロス 他八篇 改版
出版社岩波書店
刊行年月2003.4
シリーズ名岩波文庫
収載図書走れメロス 改版49版
出版社角川書店
刊行年月2004.7
シリーズ名角川文庫
収載図書斎藤孝の音読破 2 走れメロス
出版社小学館
刊行年月2004.11
収載図書走れメロス 改版
出版社新潮社
刊行年月2005.2
シリーズ名新潮文庫
収載図書走れメロス
出版社フロンティアニセン
刊行年月2005.3
シリーズ名第2刷 (フロンティア文庫)
収載図書走れメロス
出版社ポプラ社
刊行年月2005.10
シリーズ名ポプラポケット文庫
収載図書大活字版 ザ・太宰治―全小説全二冊 下巻
出版社第三書館
刊行年月2006.10
収載図書走れメロス 改版 新装版
出版社角川書店
刊行年月2007.6
シリーズ名角川文庫
収載図書朗読「文学のしずく」 第5巻
出版社中経出版
刊行年月2007.9
シリーズ名楽書ブックス
収載図書走れメロス 新装版
出版社講談社
刊行年月2007.10
シリーズ名講談社青い鳥文庫
富嶽百景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 04:54 UTC 版)
『富嶽百景』(ふがくひゃっけい)は、太宰治の短編小説・随筆。
概要
初出 | 『文体』1939年2月号、3月号 |
---|---|
単行本 | 『女生徒』(砂子屋書房、1939年7月20日) |
執筆時期 | 1938年12月上旬~12月20日頃 |
原稿用紙 | 20枚 |
執筆の前後
1938年(昭和13年)7月上旬頃、太宰の身の回りの面倒をみていた中畑慶吉と北芳四郎が、井伏鱒二に太宰の結婚相手の世話を依頼する。井伏の広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)の同期生の弟が東京日日新聞の記者をしており、そこからたどる縁で甲府市に住む石原美知子との結婚話が始まった。美知子は地質学者・石原初太郎の四女で、山梨県立都留高等女学校(山梨県立都留高等学校の前身の一つ)の教諭を務めていた。
1938年(昭和13年)9月13日、太宰は、井伏鱒二の勧めにより山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある土産物屋兼旅館である天下茶屋を訪れる。井伏は7月末頃より天下茶屋に滞在していた。
9月18日、太宰は井伏の付き添いで、甲府市水門町(朝日一丁目)に居住する石原美知子と見合いを行なう。太宰はただちに結婚を決意したという[1]。11月6日、美知子と婚約。11月16日、甲府市竪町(朝日五丁目)の下宿屋である寿館に移る。12月24日、美知子は山梨県立都留高等女学校を依願退職[2]。
1939年(昭和14年)1月6日、甲府市御崎町(朝日五丁目)の借家に移転。1月8日、杉並区の井伏宅で結婚式を挙行。
「富嶽百景」は、長編「火の鳥」を作成すべく、井伏鱒二の逗留する天下茶屋に3ヶ月間いる間に起こったことを小説にしている。太宰は同年9月1日、甲府から三鷹へ転居。「火の鳥」は未完に終わったが、甲府時代に「黄金風景」「女生徒」「葉桜と魔笛」「八十八夜」「畜犬談」などを著し、『愛と美について』(竹村書房)と『女生徒』(砂子屋書房)の2冊の作品集を上梓している。
あらすじ
昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で、かばん一つ提げて旅に出た「私」は、師の井伏鱒二が滞在する、甲州御坂峠の天下茶屋に身を寄せる。そこは嫌でも向き合わなければならないほど、富士がよく見える場所であった。あまりに「おあつらえ向き」だとして、富士にあまり良い印象を抱かなかった「私」だが、旅先での出会いや自己との対話を通し、少しずつ富士に対する思いを変えてゆく。主人公は見合いをして、自分の仕事を評価してくれたことも契機として、結婚を決意する。そこには、主人公を慕って文学論議に訪れた青年との出会いもあった。甲州を去る前に見た富士は、これまで見ていた富士とは違った。
備考
- 『富嶽百景〜遙かなる場所〜』(2006年5月公開)のタイトルで映画化されている。監督は秋原正俊。
脚注
- ^ 山内祥史 『太宰治の年譜』大修館書店、2012年12月20日、203頁。
- ^ 山内祥史 『太宰治の年譜』前掲書、206頁。
- ^ 岩波書店 | 太宰治作品集 文芸カセット 日本近代文学シリーズ Archived 2015年4月2日, at the Wayback Machine.
- ^ 太宰治 日下武史『富嶽百景/満願』|新潮社
関連項目
外部リンク
富嶽百景
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半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改画狂老人卍。 富岳の祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)、孝霊天皇治世の富岳出現から始まり、1707年(宝永4年)の宝永山出現を交えたり、朝鮮通信使(1811年〈文化8年〉か)、富士講登山の様子など、『富岳三十六景』が何処から見たのかに拘ったのに対し、『百景』は「○○の不二」といった題に見るように、気象条件や動感、何処を描いたのか分からない、北斎自身の意向がより明確になっている。より幅広いテーマを取り上げている。 しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、尋常ならざる図画への意欲を著した、一・二編での跋文(後書き)である。 己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん 願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし 「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
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