富嶽百景 (北斎)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 07:03 UTC 版)
『富嶽百景』(ふがくひゃっけい)は、葛飾北斎画、江川留吉彫[注釈 1]による富士山を題材とした全百二図・全三編から成る薄墨摺の半本絵本である[2][3]。天保5年(1834年)に初編、天保6年(1835年)に二編が、西村屋与八の近縁の版元西村屋祐蔵から刊行され、三編は名古屋の版元永楽屋東四郎から刊行された[4]。三編の刊行年は分かっていない[2]。細部まで拘りぬかれた彫と、淡墨の効果を活かした摺が行われた絵本分野における北斎の最高傑作とされる作品である[2][5]。落款は初編に「七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆」とあり、壮年期に用いた画狂老人の号と川柳で使用していた卍の号を掛け合わせた画号を初めて用いるようになった[6]。
注釈
- ^ 初編、二編に江川留吉の名があり、三編は門人の江川仙太郎の名がある[1]。
- ^ 櫛や煙管を制作する職人向けに刊行された絵手本で、それぞれの文様図案が収められている[11]。
- ^ 本広告の大久保による意訳は次の通りである[20]。「富嶽三十六景、前北斎為一翁画、藍摺一枚。一枚に一景ずつ、追々出版します。この絵は富士山の形が見る場所ごとに違うことを示します。あるいは七里ヶ浜で見る形、または佃島より眺める景色など、すべて同じではない様を描き、風景画を学ぶ人の便に供します。このように追々出版するので、百枚を超えることもあるでしょう。かならずしも三十六図に限るわけではありません。」
- ^ 広重没後の1859年刊行[30]。
出典
- ^ “富嶽百景 3編”. CiNii. 2023年9月26日閲覧。
- ^ a b c “富嶽百景”. 島根県立美術館. 2023年9月26日閲覧。
- ^ 『冨嶽三十六景』 - コトバンク
- ^ 濱田 2016, p. 112.
- ^ 内田 2011, p. 212.
- ^ a b c 永田 2000, p. 189.
- ^ a b 日野原 2019, p. 217.
- ^ 大久保 2005, p. 100.
- ^ 鈴木 1963, p. 68.
- ^ a b 日野原 2019, p. 207.
- ^ “今様櫛きん雛形”. 島根県立美術館. 2023年9月27日閲覧。
- ^ 日野原 2019, p. 208.
- ^ 日野原 2019, p. 209.
- ^ 日野原 2019, p. 210.
- ^ 大久保 2005, p. 99.
- ^ a b c d 永田 2000, p. 188.
- ^ 楢崎 1964, p. 119.
- ^ a b 永田 2000, p. 192.
- ^ a b 浅野他 1998, p. 84.
- ^ 大久保 2005, pp. 98–99.
- ^ 浅野他 1998, p. 82.
- ^ 浅野他 1998, p. 85.
- ^ 永田 2000, pp. 188–189.
- ^ 永田 2000, pp. 189–191.
- ^ 永田 2000, p. 191.
- ^ a b c 3編 1948, p. 38.
- ^ 3編 1948, p. 36.
- ^ 3編 1948, pp. 36–38.
- ^ 楢崎 1964, p. 123.
- ^ a b 小林忠. “浮世絵の構造 - 風景画の虚と実”. WebLibrary. 学習院大学. 2023年10月28日閲覧。
- ^ a b 加藤 2021, p. 59.
- ^ 鈴木 1963, p. 82.
- ^ 3編 1948, p. 29.
- ^ 尾崎 1968, pp. 182–183.
- ^ 楢崎 1964, p. 122.
- ^ 富士の研究 1973, p. 108.
- ^ 青木 2001, pp. 231–234.
- ^ 加藤 2021, p. 61.
- ^ a b 加藤 2021, p. 62.
- ^ 加藤 2021, p. 64.
- ^ 2編 1948, p. 10.
- ^ “冨嶽三十六景《神奈川沖浪裏》”. 文化遺産オンライン. 2023年10月29日閲覧。
- ^ a b 辻 2005, p. 25.
- ^ 2編 1948, p. 16.
- ^ 日野原 2019, p. 29.
- ^ “冨嶽三十六景《深川万年橋下》”. 文化遺産オンライン. 2023年10月29日閲覧。
- 1 富嶽百景 (北斎)とは
- 2 富嶽百景 (北斎)の概要
- 3 彫りと摺り
- 4 脚注
- 富嶽百景 (北斎)のページへのリンク