武州千住とは? わかりやすく解説

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ぶしゅうせんじゅ〔ブシウセンヂユ〕【武州千住】

読み方:ぶしゅうせんじゅ

葛飾北斎による風景版画シリーズ富嶽三十六景」の作品の一。日光奥州街道第一宿場として栄えた千住付近水門脇から眺めた富士山を描く。


武州千住

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/09 08:28 UTC 版)

『武州千住』
作者葛飾北斎
製作年1830年天保元年)から1834年(天保5年)ごろ[1][注釈 1]
種類多色刷木版画
寸法25.8 cm × 37.9 cm (10.2 in × 14.9 in)

武州千住」(ぶしゅうせんじゅ)は、葛飾北斎名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図[3]。落款は「北斎改為一筆」とある[4]

概要

本作品は、江戸四宿のひとつである千住宿近郊の農村風景を描いた一図である[4]。千住宿は現代の東京都足立区千住にあたり、江戸から日光街道奥州街道を通って日光へ至る最初の宿であり、水戸街道などとも接続している交通の要所であった[4]

水路に腰掛け釣りに興じる二人の男と、馬を牽いて木造堰枠[注釈 2]越しに、隅田川とその向こうの富士山を眺める農夫の後ろ姿が描かれており、堰枠の直線と富士山の三角形で幾何学的な構図を表現している[4]。また、頭を下げた馬の斜線や草鞋で引っ張られた手綱と富士山の稜線を対比させて描いている点も構図的な妙味が窺える[6][7]

農夫が牽く馬の背に取り付けられた農具は駄付けモッコあるいはスカリなどと呼ばれる運搬具で、馬の飼料に使う草を刈って運んでいるものと思われる[8]

脚注

注釈

  1. ^ 刊行年については柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある[2]
  2. ^ 隅田川の水が逆流しないよう設けられた制水門で、本作品に描かれた堰枠は元宿圦に設けられた元宿堰ではないかとされている[5]

出典

  1. ^ 北斎年譜”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2022年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月3日閲覧。
  2. ^ 磯崎 2021, p. 124.
  3. ^ 日野原 2019, pp. 38–39.
  4. ^ a b c d 日野原 2019, p. 40.
  5. ^ 日野原 2019, p. 41.
  6. ^ 冨嶽三十六景 武州千住”. 東京富士美術館. 2023年10月9日閲覧。
  7. ^ 冨嶽三十六景《武州千住》”. 文化遺産オンライン. 2023年10月9日閲覧。
  8. ^ 武州千住 冨嶽三十六景と千住”. 足立区公式ホームページ. 2023年10月9日閲覧。

参考文献

外部リンク



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