石原莞爾の側近に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 02:54 UTC 版)
1932年の第18回衆議院議員総選挙に全国労農大衆党から出馬して満州事変の問題では「満州からの即時撤兵」を選挙で叫び、かねてから浅原の政敵で出兵に賛成する社会民衆党の亀井貫一郎に敗れて落選する。政友会幹事長の森恪から、「日中問題を解決するには軍に近づく必要がある」と説かれ、軍人との人脈作りにはげむ。陸軍大臣だった林銑十郎の使者として、当時仙台で連隊長の任に会った石原莞爾と出会うと、石原と共鳴し、付き合いを深めている。以後浅原は石原の政務秘書の様な役を演じ、宇垣内閣の阻止、林内閣の成立などの際、裏で動いていくことになる。 石原が失脚して舞鶴要塞の司令官に追いやられると、日系官吏の「内面指導」に支配された満州国協和会を改革する協和会東京事務所嘱託だった浅原は加藤泊治郎東京憲兵隊長の下において治安維持法容疑で逮捕される(世にいう浅原事件)。これは、石原一派の粛清を目指す東條英機派の意思によるものといわれている。浅原を「アカ」とみなしていた東條が、軍に潜入して軍を赤化させる恐れがあると断じたのである。しかし、浅原を起訴することは石原を疑うことになり、石原を疑うことは当時陸軍大臣であった板垣征四郎の顔に泥を塗る行為でもあった。そこで陸軍省の岩畔豪雄の提案で全員釈放して浅原のみ国外追放することになった。 その後、上海に居を構え、そこで巨万の富を成す。1944年には東條英機暗殺未遂事件への関与が疑われ、憲兵隊に逮捕される。しかし、またも釈放され、今度は那須の山奥で蟄居させられる。
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