石原裕次郎の発掘
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1955年、石原慎太郎の『太陽の季節』が『文學界』7月号に掲載される。同作品は1956年1月23日、第34回芥川賞を受賞した。日活は以前から映画化権を獲得しており、企画部の荒牧という人物が映画化実現のために奔走し、瀧子がプロデューサー中で唯一興味を示した。賛否両論が巻き起こっていた内容に、社内では「こんな不道徳なものを」という反対意見が起こったが、芥川賞を受賞したことで製作の方向へ傾いた。瀧子は当初原作者の石原慎太郎を主演として考えていたが、慎太郎と打ち合わせを重ねるうちに「一度弟に会ってほしい」と頼まれ、芥川賞受賞記念パーティーで慎太郎の弟・石原裕次郎に引き会わされた。瀧子はそのときの印象を次のように述べている。 「一目で『これはいける』と思った。不良って言ってもね、本当の不良かどうかは雰囲気で分かるんです。裕ちゃんにはそういう暗い翳はなかった。輝きがありましたから。(中略)やっぱり今までになかったタイプの青年でしたね。戦後アメリカがどっと入ってきたでしょう。ところが周りの日本人社会見たってそういうのは全然いなかったわけですよ。裕ちゃんにはそういう、ややアメリカ的な感じがあるでしょう。身長はあるしね」 また、蔵原惟繕は次のように述べている。 当時、ジェームス・ディーンなんかが出てきた時代で、既成の俳優の中にはない、時代の息吹を背負って出て来た、そういうものを感じさせる青年で、兄、石原慎太郎さんの小説『太陽の季節』なんかの、ああこの世界から本当に出てきたんだなという感じで、水の江さんの感覚に感心したんですけれど。ジェームス・ディーンみたいに、演技の上手下手は、超越したところで存在してしまう全く新しいタイプの役者が出てきたなと、これを見つけ出してきた嗅覚には驚いたもんです。 瀧子は裕次郎の主演を熱望したが、身長が高すぎて他の俳優と吊り合わないこと、素人であること、裕次郎が「不良」とされていたことなどから会社からの猛反対に遭い、長門裕之主演で撮影されることに決まり、裕次郎は湘南の学生言葉を指導するスタッフに回された。撮影開始後、瀧子は新たに付け加えた「拳闘部の学生」という端役に裕次郎を据え、カメラマンの伊佐山三郎に裕次郎を大アップで撮らせ、それをスチール化して会社幹部に見せた。この写真を見た幹部も出演に納得し、裕次郎は端役ながら『太陽の季節』の出演者に名を連ねることになった。瀧子が伊佐山に裕次郎を撮らせた際、伊佐山が「ファインダーの向こうに阪妻がいる」と感嘆したという話が伝説的に伝えられているが、瀧子によればそれは事実であったという。 映画『太陽の季節』は公開後、公序良俗に反する、若者を不良化させる、などといった非難を巻き起こし、各県で未成年の観覧が禁止されたが、「太陽族」、「慎太郎刈り」という流行語まで生み出す大ヒットを記録した。ただし瀧子は、監督の感覚が古く、「新しい若者の台頭」を描くべきところで焦点が違うところにあったとして、「プロデューサー会でさんざん吊し上げを喰って、それで、できた映画があれではどうしようもなかった」と作品の出来への不満を吐露している。
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