加藤泊治郎とは? わかりやすく解説

加藤泊治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 16:02 UTC 版)

加藤 泊治郎
生誕 1887年6月8日
日本 山口県
死没 (1951-02-19) 1951年2月19日(63歳没)
ソビエト連邦
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1910 - 1945
最終階級 中将
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加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年明治20年)6月8日 - 1951年昭和26年)2月19日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。

経歴

山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。 以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。

朝鮮憲兵隊司令官、憲兵司令部本部長、関東憲兵隊司令官、憲兵司令官、北支那派遣憲兵隊司令官兼北支那特別警備隊司令官などを歴任し、昭和18年(1943年)10月、陸軍中将となった。昭和20年(1945年)8月に東部軍管区兵務部長の発令を受けたが、終戦により赴任できず、朝鮮北部でソ連軍の捕虜となった。昭和26年(1951年)2月、ウラジーミル監獄で病死した。

栄典

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

脚注

  1. ^ 官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。

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