「三奸四愚」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある。 三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄 田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた。田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないことを証言したとして評判が悪い。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で、一旦は軍紀に厳格な東條の不興を買い参謀本部第1部長を更迭されるも、1941年4月には陸軍省人事局局長に返り咲いている。1943年3月には陸軍次官も兼任し、東條の補佐に辣腕を振るい、東條の参謀総長就任時には杉山元元帥の説得などで実績を残す。東條が失脚後は最前線のフィリピンで第4航空軍司令官として航空戦を指揮、航空には全くの素人ながら、積極的な作戦指導でアメリカ軍を苦しめ、富永に批判的であった昭和天皇からも「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」その戦いぶりを称賛されている。やがて、戦力を消耗すると、第14方面軍参謀長の武藤章中将の提案などで、戦力立て直しのために台湾に撤退するも、大本営の承認をとっていなかったため、敵前逃亡に等しい行為と批判されて、第4航空軍は解体され、富永は予備役行きとなった。
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