「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森とは? わかりやすく解説

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「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森」の解説

1941年昭和16年1月21日に父・農林省水産局長に就任し、約3年単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子叱りつけ、原稿用紙片っ端からビリビリ破いた。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。 同年4月中等科5年進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ国語教師清水文雄原稿郵送して批評請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身所属する日本浪曼派国文学雑誌文藝文化』の同人たち(蓮田善明池田勉栗山理一)にも読ませるため、静岡県伊豆修善寺温泉新井旅館での一泊旅行兼ねた編集会議に、その原稿持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載即決したその際、同誌の読者圏が全国広がっていたため、息子文学活動反対する平岡梓反応など、まだ16歳の公威の将来案じ本名平岡公威」でなく、筆名使わせることとなった清水は、「今しばらく平岡公威実名伏せてその成長静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人意向であった」と、合宿会議回想している。筆名考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士白雪見て「ゆきお」が思い浮かんできた。 帰京後清水筆名使用提案すると、公威は当初本名主張した受け入れ、「伊藤左千夫いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した結局由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水助言で、「三島由紀夫となった。「由紀」は、大嘗祭神事用い新穀奉るため選ばれ2つ国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌悠紀由基)の字にちなん付けられた。 リルケ保田與重郎影響受けた花ざかりの森」は、『文藝文化昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目編集後記蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃言葉は、公威の意識大きな影響与えた。この9月、公威は随想惟神之道(かんながらのみち)」をノート記し、〈地上高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造精神である〉と、神道への深い傾倒寄せた日中戦争拡大日独伊三国同盟の締結によりイギリスアメリカ合衆国対立深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降次第全面戦争突入濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日行われたマレー作戦真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスアメリカオランダなどの連合国開戦し太平洋戦争大東亜戦争)が始まった開戦当日教室にやって来た馬術部先輩から、「戦争はじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた1942年昭和17年1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月入選)。3月24日席次2番中等科卒業し4月学習院高等科文科乙類独語)に進んだ。公威は、体操物理の「中上」を除けばきわめて優秀な学生であった運動は苦手であったが、高等科での教練成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力褒められたことを、公威は誇りとしていた。 ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師桜井和市新関良三野村行一(1957年東宮大夫在職中死去)らがいた。後年ドナルド・キーンドイツ講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった各地日本軍勝利を重ねていた同年4月大東亜戦争開戦静かな感動厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表同年5月23日文芸部委員長選出された公威は、7月1日東文彦徳川義恭東京帝国大学文学部進学と共に同人誌赤繪』を創刊し、「菟と瑪耶」を掲載した誌名の由来志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情深め病床の東とはさらに文通重ねた同年8月26日祖父・定太郎死亡没年79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った同年11月学習院講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎面会し以後何度訪問する。公威は保田與重郎蓮田善明伊東静雄日本浪曼派影響下で、詩や小説、随筆同人誌文藝文化』に発表し、特に蓮田説く皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌数年先輩にあたる森本忠が著した神風連のこころ』(國民評論社1942年)の書評であるが、この一文森本著書読んでいた公威は、後年1966年昭和41年8月に、神風連の地・熊本訪れ森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。 ちなみに三島死後村松剛倭文重から聞いた話として、三島中等科卒業前に一高入試受験し不合格となっていたという説もあるが、三島中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科文科乙類独語)にすると伝え記述があり、三島本人そのまま文芸部基盤形成されていた学習院高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島一高受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係不明であるため、全集年譜にも補足として、「学習院在学中には他校受験はできなかったという説もある」と付記されている。

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