「三方ヶ原」で「狩野探幽に」とは? わかりやすく解説

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「三方ヶ原」で「狩野探幽に」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 03:44 UTC 版)

徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「「三方ヶ原」で「狩野探幽に」」の解説

1935年昭和10年11月徳川美術館開館後、翌1936年昭和11年1月7日-26日にかけて開催され第3回展覧会で、本図初日から半期展示され、珍しい作品として同月6日付の新聞新愛知』と『大阪毎日新聞』で展示風景画像写真あわせて紹介された。 (…)従来門外不出とされてゐた家康公が三方ケ原戦死免れた難苦の状を狩野探幽画いたもの(…) — 『新愛知1936年1月6日徳川家康歯ぎしりの図(…)その中の逸品はここに掲げた家康歯ぎしりをするの図』……三方ケ原敗戦失意どん底にある家康公を描いたもので、尾州藩義直公が父の艱苦忘れぬため狩野探幽に描かせたもの — 『大阪毎日新聞』(名古屋版1936年1月6日付 両記事において、本図三方ヶ原の戦いでの敗戦の図とされ、また製作者狩野探幽として紹介されており、紹介内容共通していることから、徳川美術館側から提供され情報基づいて執筆された記事とみられている。 また同月14日付の『新愛知』に掲載された、尾張徳川家19当主徳川義親侯爵や、同家御相談人阪本釤之助枢密顧問官同家家令鈴木信吉堀田左右名古屋市史編纂長らが出席した祖先を語る座談会12)」の「三方ヶ原の戦に儂しや痩せた 家康公の苦戦ぶり」と題した記事では、「長久手小牧山合戦時の面白い話はないか」との新聞社側の質問に対して徳川が「三方ヶ原の戦いでの敗戦記念だというので、痩せ衰えて、とてもひどい顔をしている画像が遺っている。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思うが、よほど面白いものだ」と語り堀田が「ちょっと類例がありませぬね」「(…)それは後で家康探幽命じて画かせたのだといふことでありますが…(…)」と応じ、「尾張徳川黎明会調べ」として「(…)藩祖義直は父家康九死に一生得た三方ヶ原難戦銘記する為め、狩野探幽命じて敗戦当時の肖貌を画かしめたるものなり。」との解説付され鈴木が「(1936年1月には名古屋にて(展覧会に)出ますが」とし、阪本が「これはよいことを聴きました」と受けていた。 原は、明治末(1910年)の時点で、本図特異な容貌から「敗戦」の画像という情報追加され従来からあった「長篠合戦の図」という由来整合がとれなくなったため、家康歴史的大敗喫したとされる三方ヶ原合戦」の敗戦図とすることで「歯ぎしりの図」との歴史的整合性をとろうとした、と解釈し、また美術館開館にあたり話題性提供するために厳密な検討をせず、印象先行させたとも考えられる、としている。 その後1962年昭和37年)に発行され図録徳川美術館 別巻あとがき では、本図は『徳川家康三方ヶ原戦役小具足着用像』の名称で紹介されていた。

※この「「三方ヶ原」で「狩野探幽に」」の解説は、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の解説の一部です。
「「三方ヶ原」で「狩野探幽に」」を含む「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事については、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の概要を参照ください。

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