「三方ヶ原」で「狩野探幽に」
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「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「「三方ヶ原」で「狩野探幽に」」の解説
1935年(昭和10年)11月の徳川美術館開館後、翌1936年(昭和11年)1月7日-26日にかけて開催された第3回展覧会で、本図は初日から半期間展示され、珍しい作品として同月6日付の新聞『新愛知』と『大阪毎日新聞』で展示風景や画像の写真とあわせて紹介された。 (…)従来門外不出とされてゐた家康公が三方ケ原で戦死を免れた難苦の状を狩野探幽が画いたもの(…) — 『新愛知』1936年1月6日付 徳川家康公歯ぎしりの図(…)その中の逸品はここに掲げた『家康公歯ぎしりをするの図』……三方ケ原の敗戦で失意のどん底にある家康公を描いたもので、尾州藩祖義直公が父の艱苦を忘れぬため狩野探幽に描かせたもの — 『大阪毎日新聞』(名古屋版)1936年1月6日付 両記事において、本図は三方ヶ原の戦いでの敗戦の図とされ、また製作者は狩野探幽として紹介されており、紹介内容が共通していることから、徳川美術館側から提供された情報に基づいて執筆された記事とみられている。 また同月14日付の『新愛知』に掲載された、尾張徳川家第19代当主・徳川義親侯爵や、同家御相談人の阪本釤之助枢密顧問官、同家家令の鈴木信吉、堀田璋左右前名古屋市史編纂長らが出席した「祖先を語る座談会(12)」の「三方ヶ原の戦に儂しや痩せた 家康公の苦戦ぶり」と題した記事では、「長久手、小牧山の合戦の時の面白い話はないか」との新聞社側の質問に対して、徳川が「三方ヶ原の戦いでの敗戦の記念だというので、痩せ衰えて、とてもひどい顔をしている画像が遺っている。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思うが、よほど面白いものだ」と語り、堀田が「ちょっと類例がありませぬね」「(…)それは後で家康が探幽に命じて画かせたのだといふことでありますが…(…)」と応じ、「尾張徳川黎明会調べ」として「(…)藩祖義直は父家康の九死に一生を得たる三方ヶ原難戦を銘記する為め、狩野探幽に命じて其敗戦当時の肖貌を画かしめたるものなり。」との解説が付され、鈴木が「(1936年)1月には名古屋にて(展覧会に)出ますが」とし、阪本が「これはよいことを聴きました」と受けていた。 原は、明治末(1910年)の時点で、本図に特異な容貌から「敗戦」の画像という情報が追加され、従来からあった「長篠合戦の図」という由来と整合がとれなくなったため、家康が歴史的大敗を喫したとされる「三方ヶ原合戦」の敗戦図とすることで「歯ぎしりの図」との歴史的整合性をとろうとした、と解釈し、また美術館の開館にあたり、話題性を提供するために厳密な検討をせず、印象を先行させたとも考えられる、としている。 その後、1962年(昭和37年)に発行された蔵品図録『徳川美術館 別巻』あとがき では、本図は『徳川家康三方ヶ原戦役小具足着用像』の名称で紹介されていた。
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