「三方ケ原戦役図」説の否定
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「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「「三方ケ原戦役図」説の否定」の解説
藤本は、武具や服飾などの風俗史的観点からの考察により、本図の風俗描写は、家康が三方ヶ原の戦いの直後に描かせたにしては、合戦が行なわれた16世紀当時の武装との隔たりが大きいことを指摘し、江戸時代中期に、家の先祖を追慕・顕彰するため、大鎧・片籠手・貫(つらぬき) といった古風・立派で現実離れした武装をした肖像画が盛んに製作されていたことから、本図は家康没後に家康を追慕する者が描かせたものであり、仏像に多い半跏思惟の姿勢であることから、礼拝のために製作されたとも考えられる、と指摘した。 松島は、江戸幕府に仕えていた江戸狩野派絵師の活動から幕府による家康の神格化事業を研究・考察する観点から、大織冠像(藤原鎌足像)や如意輪観音像 が半跏の姿をとっていることを指摘し、本図はこれらの像と同じ系譜に家康を位置づけ、かつ東照大権現の軍神的性格をも加えた礼拝像であり、像主の特異な顔貌は「忿怒の表情を浮かべ」たもので、正面を向いて座る姿勢も礼拝像に相応しい表現である、として本図は礼拝図であると主張した。
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