東照大権現とは?

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とうしょう だいごんげん とうせう-東照大権現

徳川家康神号1617年後水尾天皇から勅諡ちよくし)されたもの。

とうしょうだいごんげん 【東照大権現】

徳川家康が死の翌年一六一七=元和三)、後水尾天皇から贈られた神号。→ 権現

徳川家康

(東照大権現 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 18:54 UTC 版)

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名[1]天下人安祥松平家9代当主にして徳川家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる[1]三英傑のひとり。




注釈

  1. ^ この説では、松平広忠が叔父・信孝、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝及び牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする[9]。なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については村岡幹生の「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年)をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる平野明夫(「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)や糟谷幸裕(大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 同書天文15年-永禄3年節)らとの議論がある[10]
  2. ^ 家臣の岩松八弥の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はないとする意見もある(村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」)。
  3. ^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
  4. ^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
  5. ^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[12]。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった[13]
  6. ^ 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた随念院(松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている[14]
  7. ^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
  8. ^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある[15]。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
  9. ^ 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた[16]
  10. ^ 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曾祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる[17]
  11. ^ 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河忿劇において反今川派に属していた[19]
  12. ^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物[27]の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
  13. ^ 家康の名は源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる[要出典]。近年の説では菊地浩之は於大の方の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期がある事を指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたとする説を唱えている[29]
  14. ^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄細川政元期の赤松政則足利義稙細川高国期の大内義興足利義晴細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
  15. ^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
  16. ^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[34]の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[35][注釈 15]
  17. ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
  18. ^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[36]
  19. ^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉する事を警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、
    (1)朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。
    (2)長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。
    (3)万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。
    を婚姻の条件にしたとされる。(1)と(3)は実際起こらなかったものの、(2)については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、(2)の条件に基づく判断であったと考えられ、(1)と(3)の条件も実在した可能性が高い[44]
  20. ^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[44][45]
  21. ^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである。
  22. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[49]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[50]
  23. ^ ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている[56]
  24. ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[57]
  25. ^ 常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
  26. ^ 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという[61]
  27. ^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[63]
  28. ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
  29. ^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
  30. ^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
  31. ^
    徳川家康征夷大将軍補任の宣旨

    内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

    (訓読文)
    内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る

    — 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記

    ※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。

  32. ^ 当時のオランダは公式には共和制であった(ネーデルラント連邦共和国)。オランダが正式に王制となるのは19世紀初めのウィーン会議後である。
  33. ^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[80]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[81]
  34. ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[80]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1]
  35. ^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる[85]。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
  36. ^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[88]
  37. ^ 『東武実録』では、久能での埋葬の段では「神柩」とし、日光への「改葬」の段では「霊柩」として、柩の呼称を区別している。
  38. ^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[91]
  39. ^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。
  40. ^ a b 年は、1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦に基づく。日付は宣明暦長暦。
  41. ^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ[93]
  42. ^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
  43. ^ 柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
  44. ^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[101]
  45. ^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり
  46. ^ 2013年の時点では無疵の健全作と思われていたが[115]、その後の調査で疵をならして修復した形跡が発見されている[116]
  47. ^ 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
  48. ^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
  49. ^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女のを迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
  50. ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[139]
  51. ^ 徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
  52. ^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)ころの史料なので信憑性には疑問がある。
  53. ^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。

出典

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