「三宿四二〇商店会」とパン祭りの発足
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「世田谷パン祭り」の記事における「「三宿四二〇商店会」とパン祭りの発足」の解説
このイベントの発足には、「三宿四二〇商店会」(Mishuku R.420)の誕生が深くかかわっている。IID 世田谷ものづくり学校で副校長を務めていた間中伸也(世田谷パン祭り事務局代表)は、2008年にハンカチショップを三宿通りで開店した。近隣には魅力的な店が多く集まっていて、他店と一緒にこの通りを盛り上げたいという話が出るようになった。しかし、間中は商店会がこの通りに存在しないことに気づいて驚いた。 1990年代の三宿は、流行に乗った飲食店が集まる地域として憧れの対象であった。バブル景気崩壊後に、駅から遠い立地条件もあって飲食店は淘汰され、人が徐々に減っていた。30歳代の若い店主が経営する個性的な物販やサービスの店は増えていたが、メディアに取り上げられることは少なくなっていた。そこで間中を始めとした人々が商店会を作って外部に発信しようということになった。 商店会の会長に松村拓也(IID 世田谷ものづくり学校校長)を迎え、間中が副会長となって三宿四二〇商店会は2009年に設立できた。日本では全国的に商店会が減っている時代の中で、新たな商店会の設立は数十年ぶりといい、記録が残っていないほど珍しいことであったという。 三宿四二〇商店会のコンセプトとして決まったのは、「地域内外の人々が集まり交流しながら創造的で洗練された体験ができる『キャンパス』のようなまちづくり」であった。加盟店からは加入に伴うメリットを求める意見が挙がったため、間中は「商店会に入ってよかった」と喜んでもらえる方法を真剣に考えた。その結果1年に1度か2度大きなイベントを開催してたくさんの人々を地域に集める必要に思い当たった。 三宿四二〇商店会ではパン祭りの実施前にもイベントを開いたものの、このときは人が集まらず反応も芳しくなかった。次に間中がイベントの対象として考えたのは「パン」であった。世田谷には知名度の高いパン屋が多くあり、そのうちの2軒は三宿四二〇商店会にあった。そこで「パン祭り」の発想が生まれ、商店会が協力して開催することになった。 イベントの始動にあたって、間中は志賀勝栄というパン職人に会いに行った。志賀は太子堂の「シニフィアン・シニフィエ」(Signifiant Signifié)というパン屋のオーナーであり、地元世田谷はおろか日本でも有数のシェフ・ブーランジェと評価される人物であった。志賀は地域を盛り上げていきたいという間中の思いに賛同し、イベントへの出店を決めた。 間中によれば、当初パン祭りを始めると伝えたところ、聞いた人はみなポカンとした顔をしたという。中には「パンで人が集まるのか」という否定的な意見さえあり、最初のうちの志賀も同様の思いを抱いていた。
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