徳川家康三方ヶ原戦役画像
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『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう)は、徳川家康の肖像画の一つとされる。徳川美術館所蔵。像主が顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている。
注釈
- ^ 徳川美術館の収蔵品台帳による。表装の寸法は、縦3尺5寸1分(106.5センチメートル)・横1尺5分5厘(32.0センチメートル)[13]。1880年(明治13年)7月に作成された尾張徳川家の財産目録『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[14]。
- ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、縦37.7 横21.8、としている[2]。
- ^ 『御器物目録』にも同様の記述があり、寸法や表装に関する記載の一致が同じ作品だと判断する根拠となっている[14]。
- ^ 文化庁文化遺産オンラインでは、桃山時代・16世紀の作、とされている[2]。
- ^ 1757年11月24日(宝暦7年10月13日) - 1804年9月1日(文化元年7月27日)[23]。紀伊徳川家第7代・徳川宗将の息女[24]。1780年(安永9年)に、尾張徳川家第9代当主・徳川宗睦の養嗣子である治行に嫁いだが、治行は1793年に宗睦に先立ち死去したため尾張徳川家の当主とはならず[24]、治行との間に生まれた長男の五郎太も早逝した[23]。1802年(享和2年)8月より湯治のため尾張に[要検証 ]滞在し、2年後に同地にて数え48歳で死去[23][24]。
- ^ 御清御長持は3棹の長持で、尾張家において最も重要な道具の一つとされ、藩政時代には名古屋城二之丸の北辺にあった不入火御土蔵に保管されていた[25]。
- ^ 1813年(文化10年)に尾張藩の重臣・鈴木丹後守より献上され、「御清御長持」に加えられた[28]。
- ^ 原は、香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)からの引用として、尾張徳川家大曽根邸で実施[31]、としているが、同書の中で香山は「名古屋開府300年」の祝賀行事の一環として開催されたことから、尾張徳川家の、大曽根本邸または名古屋市内の同家所縁の場所で開催されただろう[32]、と推測しており、場所を特定していない。
- ^ 原の下掲書に、「本図が初めて世の中に紹介されたと思われる什宝陳列において(…)この(1893年の)名称が用いられた(註13)。」とある[31]が、同書が出典としている香山の「徳川義親の美術館設立想起」(『金鯱叢書』第41巻)には該当する記述がない[36]。
- ^ 原は「昭和10年(1935年)の徳川美術館開館直前まで、本図を三方ヶ原合戦に関連させる認識は存在していなかった」としている[39]が、上記の1930年までに作成された目録以後、1935年の徳川美術館開館までの間に「認識」が存在しなかったとする根拠には言及がない。
- ^ 「家康公が戦つたうちで一番痛い目に遇つたのは三方ケ原の合戦でありました。元亀三年三月甲斐の武田信玄との戦ひでありましたが、この時家康公は戦ひに破れて散々な目に遇つて今にも戦死しさうになつたことがあります。その時の敗戦の記念だといふので、まるで痩衰へて、とてもひどい顔をしている御画像が遺つております。それは敗戦記念として子孫への戒めのために残したものだと思ひますが、よほど面白いものであります。……」[43][47]
- ^ 画像の由緒については「尾州家(尾張家)先祖伝来」と記されている[51]。
- ^ 原は同書で、高柳光寿 の『戦国戦記 1 三方原の戦 』[54] に本図の逸話が取り上げられていないことを、1958年時点で口伝が世間に流布していなかったことの傍証としている。
- ^ 林述斎が1836年(天保7年)から1837年(天保8年)にかけて編纂した家康の言行録[55][56]。
- ^ 像主の烏帽子・鎧直垂・左腕のみの籠手(片籠手)姿は、弓矢による戦闘を重視した平安・鎌倉時代の上級武士に見られる武装で、太刀・薙刀・槍を用いた接近戦闘が増加した鎌倉時代末期から廃れはじめ、室町時代には両腕に籠手を着ける諸籠手の武装が定着し、片籠手は例外的になっていたことから、三方ヶ原の戦いが行なわれた元亀・天正頃には見られないはずであること[71]、鎧直垂を着て片籠手を指す場合、左肩を脱いで左袖を畳んで袴に挟み、下着の小袖の上から籠手を着けることになるが、細い籠手を鎧直垂の袖の上から指しているのは袖の生地がかさばるため現実には不可能なこと[72]、三方ヶ原の戦いは冬に行なわれた合戦であるのに、像主は素足に草鞋姿であり、家康ほどの武将が革足袋を履いていないのは不自然であること[6]。
- ^ 毛皮の靴の一種。
- ^ 中世において聖徳太子の化身とされた。
- ^ 松島は、徳川将軍権力は伝統的権威である朝廷を相対化するにあたって皇室や摂家が作り上げた権力構造を吸収・再編する必要に迫られ、その一環として江戸狩野派の絵師が家康の生涯を描いた『東照宮縁起絵巻』や家康肖像を製作する際、聖徳太子や藤原鎌足を主題とした『聖徳太子絵伝』や『多武峰縁起絵巻』など過去の絵巻物や絵画から図様の形式を引用することで、それらから王法仏法相依論をはじめとする政治的思想や王権にまつわる物語軸を取り込み、王法と仏法とを統合した超越者・東照大権現たる家康による近世徳川日本の創建神話へ組み替えていくことを意図したと推論している[74][75]。
- ^ 朝日新聞(大島)の記事では、原の調査発表後、徳川美術館は同像の扱いについて「(徳川)美術館の対応を踏まえて考えたい」と話した、としている[65]。
出典
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- ^ 徳川美術館・徳川黎明会 1972, p. 235.
- 1 徳川家康三方ヶ原戦役画像とは
- 2 徳川家康三方ヶ原戦役画像の概要
- 3 口伝の発展
- 4 脚注
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