「家康」自身が「慢心を自戒して生涯座右に置いた」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 03:44 UTC 版)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「「家康」自身が「慢心を自戒して生涯座右に置いた」」の解説
1972年(昭和47年)に発行された『徳川美術館名品図録』では、作品名称は『徳川家康三方ヶ原戦役画像』、解説文で「浜松城に逃げ帰った家康が、この敗戦を肝に銘ずるためその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられるのがこの画像である」として、美術館側が初めて家康自身が敗戦を肝に銘じるために描かせ、慢心を自戒して生涯座右に置いたとの情報が付加された。 原は、1972年時点までに、2016年現在世間に流布している本図の創作的口伝がほぼ形作られたと推測している。 なお、原は、「三方ヶ原の戦いに際して、家康が『慢心』から家臣の制止を押し切って籠城せずに出撃し、そのために大敗を喫した」との逸話は、『三河物語』や『朝野旧聞裒藁』に収載されている古記録のうち「落穂集」・「武徳大成記」・「官本三河記」などに類似の話があるものの、家康が出撃の決断を後悔・反省したとの記述はなく、むしろ武門の誉れとして肯定的に記されており、また敗戦直後に自己の姿を絵師に描かせたりしたとする逸話の記録はないこと、江戸時代後期に賞賛すべき家康の言動を諸記録から抜粋・収録してまとめられた『披沙揀金』にも、「家康が己を戒めるために惨めな姿を描かせた」という賞賛・喧伝されてしかるべき逸話が現れないことから、「家康自身が三方ヶ原敗戦後に自らの姿を描かせた」との逸話は、尾張家に限定されて伝わっていたか、逸話そのものが存在しなかったかのどちらかだと指摘している。
※この「「家康」自身が「慢心を自戒して生涯座右に置いた」」の解説は、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の解説の一部です。
「「家康」自身が「慢心を自戒して生涯座右に置いた」」を含む「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事については、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の概要を参照ください。
- 「家康」自身が「慢心を自戒して生涯座右に置いた」のページへのリンク