「家庭学校」と「家庭学校北海道分校」の開校
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「留岡幸助」の記事における「「家庭学校」と「家庭学校北海道分校」の開校」の解説
帰国後、東京府の巣鴨監獄で教誨師を務めながら感化院設立のために奔走し、1899年(明治32年)、東京府北豊島郡巣鴨村(現・東京都豊島区)に土地を購入し、民間感化院「家庭学校」(現・児童養護施設東京家庭学校)を設立した。また牧会者として霊南坂教会に所属し、「基督教新聞」の編集を行った。 1900年(明治33年)、最初の妻であった夏子と死別し、のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚した。 1914年(大正3年)、「流汗鍛錬」の信条のもと、大自然の中での農作業などの労働体験を通じて感化事業を行う構想を実現するため、北海道オホーツク海側の紋別郡上湧別村字サナプチ(のち分村し遠軽村字社名渕、現・遠軽町留岡)の国有地の払い下げを受け、施設を柵などで外界と隔離しない開放処遇の「家庭学校北海道分校」(現・児童自立支援施設北海道家庭学校)とその農場を開設した。 北海道分校では払い下げを受けた土地を周辺の開拓民に分配してその小作料を分校運営費にあてるとともに、「社名渕産業組合」を開設して開拓地と分校の共存共栄を図る経済振興に取り組んだ。また分校内に各種教材や図書を備えた「博物室」を設けて開拓民の子弟にも開放し、地域の教育振興に貢献した。 これらの活動をたたえ1915年(大正4年)11月9日には藍綬褒章を受章した。1922年(大正11年)、神奈川県茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがまもなく関東大震災で建物が倒壊し、1933年(昭和8年)閉校した。留岡はこの間、北海道分校と本校を行き来しながら、二つの学校を指導監督した。 1931年(昭和6年)、家庭学校本校で奉教五十年を祝う感謝の会が開かれた際、徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れた。1933年(昭和8年)に妻きく子夫人が死去し、留岡は家庭学校の名誉校長となって現場から退き、二代目の校長には牧野虎次が就任した。1934年(昭和9年)2月5日、東京府北多摩郡千歳村大字上祖師谷(現・東京都世田谷区)の自宅で死去した。
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