感化事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:24 UTC 版)
雪枝は易断を通じて、多くの苦難を抱える人々と接することで、明治維新による当時の社会の混乱、貧困、家族の離散などがもとで人々の精神が荒廃し、非行や犯罪のもととなっていると考え、過ちを犯した若者の救済と再教育を天職と考え始めた。 60歳に近い頃、感化事業の開始を決意した。1883年(明治16年)、大阪北区の雪枝の自宅に「池上感化院」が開設された。翌1984年(明治17年)8月に感化事業が公式発表され、同1984年9月には、収容児の増加により手狭になったことで、感化院は松ヶ枝町に移転され、授産所も建設した。 内務省監獄局の官吏であった坂部寔は、かつて感化院の設立を企画しながらも挫折した経緯があったことから、雪枝の開設時に「カンカインノカイインシキヲシュクス」と祝電を送った。坂部はその後も雪枝に信頼を寄せて、多忙の合間を縫って頻繁に雪枝のもとを訪れ、助言を与え、激励した。社会事業家の原胤昭もまた感化教育の熱心な推進者であり、池上感化院を何度か訪問した。 感化院の児童たちは「生徒」と呼ばれ、教育が熱心に行われた。雪枝は、生徒1人1人の性格と適性を判断し、各自に適した教育、技術を与えた。特に英語教育を重視し、キリスト教の教師との親交を持って、国際感覚を養うことを重視した。また技術面においては、洋傘、石鹼、ステッキの製造など、新たな分野での職業教育を行い、自立の機会を与えた。感化院からは多くの更生者が生み出され、中には陸軍技師としてイギリスで活躍して勲四等を授けられた者、事業に成功して多額納税者になった者もいた。 雪枝は独力で事業の成就を願い、広く地域の人々への一般教育を図ろうと、雑誌「雪枝草子」発行など努力した。しかし雑誌発行は経営難のために、3か月で廃刊に至った、
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