感化事業の衰退 - 晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:24 UTC 版)
「池上雪枝」の記事における「感化事業の衰退 - 晩年」の解説
1886年(明治19年)には感化院もまた、設立からわずか約3年にして経営難に陥った。施設運営の経費は予想以上であり、授産事業で運営を支えようとしても、到底不足であった。成立から間もない政府の支援も限定されたものであり、銀行筋への資金の融通も困難であった。加えて、雑誌発行のための借金による心労、事業計画の甘さ、継承者の力不足、雪枝の病気など、問題は多かった。事業は急速に衰退し、1888年(明治21年)頃には閉鎖同然となった。 1891年(明治24年)、雪枝は感化院復興を果たせないまま、65歳で死去した。実妹によれば、「しんどい」「熱がある」などとはただの一度も口にしなかったが、感化事業について思い残すことがあったと見られ、死の2分前に「誰をかもたのまむ老の身の わけつくされぬ ことの葉のみち」と辞世の句を詠んで、身を正して死去したという。墓碑は大阪府大阪市北区の栗東寺にある。
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