覆された陸相就任
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1939年(昭和14年)8月、平沼内閣が総辞職し、後継首相は阿部信行大将となった。阿部内閣の組閣時、多田は板垣陸相の後任として陸軍三長官会議で陸相候補に決定した。候補には他に東条英機、西尾寿造、磯谷廉介の名が挙がっており、中でも東條を推す声が強かったが、板垣陸相を中心とした反対論がこれを制して多田に決まったと考えられている。 しかし、この決定は波紋を起こした。阿部内閣の成立に深く関与した有末精三軍務課長の回想によれば、渡部富士雄防衛課長が部屋に来て「これでは血を見ますよ!」と述べて多田と東條の対立の再燃を警告したという。実際、東條派は多田の陸相就任を阻止しようと活動し、加藤泊治郎東京憲兵隊長が木戸幸一内務大臣に多田反対を要請する一幕があった。また、後継内閣の陸相として新聞に名が挙がっていたのは、磯谷と多田であった(磯谷の名が出たのは、東京憲兵隊のリークによる多田就任妨害工作との証言がある)。 人事局長の飯沼守少将が第3軍司令官を務めていた多田のいる牡丹江へ承諾を取るために派遣されたが、関東軍に足止めされているうちに、昭和天皇から「陸相には畑(俊六)か梅津(美治郎)を」との思し召しがあった。 関東軍はこの人事に反対であり、植田謙吉関東軍司令官が板垣陸相に大臣留任を懇請する電報を打つなどして抵抗した。また、昭和天皇は新聞報道で磯谷と多田が新陸相候補に挙がっていることを知り、阿部に「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承諾する意思はない」と述べたという(天皇が磯谷・多田を拒絶した背景には、石原(派)への警戒感と推測されている)。昭和天皇は、盧溝橋事件(当時は現地軍の謀略ではないかとの疑惑があった)、張鼓峰事件、防共協定強化問題、ノモンハン事件等で板垣陸相への不信感や陸軍の無統制ぶりへの怒りをつのらせており、自ら一線に立って陸軍を統制する決意であった。天皇自ら陸相を指名したことは「事実上の親政宣言」とも言える。 結局、陸軍三長官会議のやりなおしにより、陸相候補は畑となったため、多田陸相は実現しなかった。なお、陸軍三長官会議で決定した陸相候補が覆されたのは、多田の事例が最初で最後であった。 筒井清忠は次のように評する。 「石原(派)こそは、日中戦争不拡大派であり、この時天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その石原派で、最も日中戦争の拡大に反対していた多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、多田が陸相になっていたらというイフは残り続けるであろう」
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