防共協定強化問題
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1938年8月26日、日独伊防共協定強化問題について五相会議が開かれた。ナチス・ドイツはこの協定を強力な軍事同盟とし、同盟の対象をソ連以外の英・仏等にも拡大しようと提案してきたが、独伊に協調的な板垣と、英米仏等にまで拡大することに否定的な宇垣外相とが対立した。11月11日にも五相会議が開かれ、英仏等のみを対象するものではないと決定されたが、これを受けた大島浩駐独大使が反発。そこで12月初めに五相会議を開いたところ板垣は、5月、11月の五相会議も対象として英仏等を含むという決定をしていたと言い出した。他の大臣はこれを批判したが板垣が反発したため、結局何も決まらないままに終了した。一方その同時期の五相会議において、ナチスが排斥するユダヤ人を日本においても排斥するわけではない、との猶太人対策要綱を発議、従来方針を再確認してもいる。また、ドイツに駐在していた河辺虎四郎が「内閣の崩壊を賭しても(陸相辞任、そして不推挙による内閣総辞職)、左右いずれか明らかな態度を示してもらいたい」と具申してきたことに対し温厚な板垣には珍しく強く叱責しており、板垣には内閣を潰してもやるという意図は無かったようである。 1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか。この前も軍事参議官の会議で、外務大臣は軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責され、更に天津問題での板垣の返答ぶりに怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている。
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