実戦参加
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「B-52 (航空機)」の記事における「実戦参加」の解説
B-52は核兵器ではなく、通常爆弾や通常弾頭ミサイルを搭載して多くの実戦に参加している。 初参戦となったのはベトナム戦争である。1965年2月7日、リンドン・ジョンソン大統領はアメリカ軍将校殺害の報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)を命令。いわゆる「フレイミング・ダート作戦」で、3月からは本格的な北爆である「ローリング・サンダー作戦」が開始された。 B-52は、グアム島や当時アメリカ統治下の沖縄本島のアメリカ軍基地から、北ベトナムまで長距離飛行し、絨毯爆撃を行って帰還した。参加したのは主に通常爆弾を大量に搭載可能に改造したD型で、100発以上の無誘導爆弾を満載して連日出撃した。 北爆に向かうB-52の進路や機数はグアムや沖縄沖で、ソ連や中華人民共和国のレーダーを搭載した偽装漁船から逐次、北ベトナム軍の司令部に報告されていた。ベトナム戦争中、北ベトナム軍のMiG-19やMiG-21などの迎撃戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルのほか、事故により31機のB-52が喪失した。だが、強力な電波妨害装置と大量の爆弾搭載量による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、発電所や浄水場などのインフラへ大きな被害を与え、戦後も長く市民生活に影響を残した。 1968年に北爆を中断するが、その後、1972年5月8日に、リチャード・ニクソン大統領は北爆再開を決定した。いわゆる「ラインバッカー I作戦」である。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使ってホーチミン・ルートを遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府の態度を迅速に講和へ向けることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別爆撃をした。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始された「ラインバッカー II作戦」では、150機のB-52による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にした。 アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民のみならず南ベトナム国民にさえ大量の死傷者を出し、北ベトナム軍と国民にも、少なからず厭戦的な意識を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス時の再度の北爆は、国際世論の猛反発を受け短期間で中止されたが、アメリカの目論見通り、この空爆は北ベトナム政府を講和交渉のテーブルにつかせ、パリ協定の締結に繋がることとなる。 ただしB-52も無傷では済まず、「ラインバッカー I、II」両作戦では北ベトナム側の猛反撃を受け、D型11機、G型6機がSA-2「ガイドライン」地対空ミサイルで撃墜される。特にG型は、東南アジア向け電子戦装備のD型に対し、核攻撃用の装備しかなく、12月18日から21日までの短期間で6機喪失の甚大な被害を受けた。これを受けて、G型はハノイ爆撃の任からは外されている。一方で2機のB-52Dの尾部銃座の攻撃でMiG-21をそれぞれ1機ずつ撃墜している。 湾岸戦争ではディエゴガルシア島などを基地にして、無誘導爆弾のみならず巡航ミサイルも使用し、35基のAGM-86C CALCMを発射した。 その後、開発されたGPS/INS誘導爆弾(Joint Direct Attack Munition) 搭載により精密爆撃が可能となり、2001年のアフガニスタン侵攻および2003年のイラク戦争でもインド洋のディエゴガルシア島から発進し、JDAMを使用して爆撃を行った。 これらの冷戦下から冷戦後にかけて行われた戦争において、滞空時間が長く多量の爆弾を搭載できるB-52爆撃機の存在は高い評価を受けた。
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実戦参加
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「アイガイオン (エースコンバットシリーズ)」の記事における「実戦参加」の解説
アイガイオンはエストバキア内戦の最中に完成しており、LUFとの戦闘に投入された。アイガイオンは東部軍閥のエリートパイロット部隊であるシュトリゴン隊と連携してLUFを攻撃し、わずか1週間でLUFの支配領域の約80%を制圧した。 2015年8月30日に勃発したエメリア・エストバキア戦争で実戦投入され、開戦劈頭のグレースメリア侵攻においてニンバスとシュトリゴン隊により防衛に当たったエメリア共和国軍に多大な損害を与え、撤退に追い込んでいる。 その後、アイガイオン率いる空中艦隊はエストバキア軍の侵攻を支え、11月後半の時点でエストバキアはアネア大陸のほぼ全域及びその西部に位置するケセド島の北部までをその勢力圏に収めた。また、この時期大陸に残存したエメリア軍によるグレースメリア奪還作戦『キング&バルーン作戦』が4度に渡って展開されたが、アイガイオンやシュトリゴン隊によりその全てが失敗に終わる。 戦力の再編を進めたエメリア軍は、セルムナ連峰での戦闘の際に露呈したニンバスの誘導方法の脆弱性をつき、その後の南部港湾都市サン・ロナの攻防戦ではニンバスによるニンバスを用いた支援攻撃の一部無力化に成功する。 2016年2月20日、エメリア軍航空部隊による空中艦隊への攻撃が実施される。これは前述のアイガイオン空中給油時に正面索敵性能が低下するという弱点を突いたもので、エメリア軍情報部がアイガイオンの空中給油スケジュールを入手したことで実行された。奇襲を受ける側となったアイガイオンと空中艦隊は多数の対空兵装、シュトリゴン隊、さらにはニンバスによって応戦するも全機撃墜され、海中にその姿を消した。
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「F-15 (戦闘機)」の記事における「実戦参加」の解説
イラン・イラク戦争中の1984年6月5日、サウジアラビア領空に接近したイラン空軍のF-4をアメリカ空軍の早期警戒管制機がレーダーに捉えた。ペルシャ湾を航行するイラク行きタンカーへの攻撃を意図するものと判断したサウジアラビア空軍は、2機のF-15を差し向ける。2機のF-15はF-4が進路変更の意思がないとしてスパローにより2機を撃墜し、これがサウジアラビア所属F-15の初戦果となった。その1時間後には10を超すイラク軍機の接近をレーダーが捉えたため、サウジアラビア空軍は同数のF-15を緊急出撃させた。最終的に30以上の目標をレーダーが捉えたが、イラク軍機が突如反転したため戦闘は回避された。結果的にアメリカにおける主力戦闘機F-15が、その前の主力戦闘機のF-4を葬り去るという興味深い戦闘だったといえる。
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実戦参加
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オーレリア戦争当時、レサス軍部では撃墜されたグレイプニルに代わる新たな広告塔として、フェンリアの実戦での活躍が強く望まれていた。フェンリアの性能に絶対の自信を持っていたレサス軍部は、完成したばかりのフェンリアを製造工場でもあるアーケロン工場要塞の防衛戦に投入し、その模様を全世界に向けて放映することを計画した。国内向けには首都アレンダルのスタジアムでセレモニーが予定され、フェンリアの勝利とその高性能ぶりが大々的にアピールされるはずであった。 しかし、要塞攻略のために派遣されたオーレリア空軍部隊によって出撃した全ての機体が撃墜され、開発製造拠点である工場要塞も壊滅。爆炎を上げて崩壊する要塞の姿が衛星回線を通じて全世界に放映されてしまう。ほぼ同時期に軍部の食料支援金横領疑惑も発覚しており、レサス国内は一時騒乱状態に陥った。これにより敗戦と横領事件の責任を追及された最高司令官ディエゴ・ギャスパー・ナバロは失脚。結果的にフェンリアの投入はレサス軍の敗北を招くこととなった。
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実戦参加
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「アル・フセイン (ミサイル)」の記事における「実戦参加」の解説
アル・フセインはイラク・イラン戦争末期の1987年に実戦投入され、イラク・イラン双方が停戦協定を結ぶ1988年まで200基が発射された。その後、1991年の湾岸戦争の際にも使用され、46基がサウジアラビアに、42基がイスラエルに対して発射された。また、アル・フセイン用のミサイルサイロがヨルダン国境近くの町であるアル・ルトバの西に数か所建設されていたが、これらは砂漠の嵐作戦においてアメリカ空軍のF-15Eの爆撃によって破壊されている。 1991年3月、イラクと多国籍軍の間で停戦協定が結ばれた後、アル・フセインは国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会の監視の元、同年7月までに全てが破棄された。
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実戦参加
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「F-16 (戦闘機)」の記事における「実戦参加」の解説
F-16が参戦した戦争の多くは中東を戦場とした。 1981年6月7日にイスラエル空軍によるイラクの首都近郊の原子力発電所への航空攻撃作戦のバビロン作戦で参加し、1982年6月6日にレバノン南部のPLO拠点攻撃を目的にイスラエルがレバノン内戦に介入したガリラヤの平和作戦では、F-15と共にシリア空軍に対するベッカー高原の航空優勢を常に掌握していた。 ソビエト軍のアフガニスタン侵攻では、パキスタン空軍のF-16が領空侵犯を行ったソビエト連邦空軍やアフガニスタン空軍を迎撃し大きな損害をもたらした。 1990年8月2日にイラクの隣国クウェートへの侵攻に始まる湾岸戦争ではアメリカ空軍の主力として参戦した。当時配備されていたF-16の大多数は精密誘導兵器運用能力はなく、精密誘導兵器の運用能力を持つF-16 Block 40/42保有部隊にしてもLANTIRNのAN/AAQ-14標定ポッドの生産遅延によりAN/AAQ-13航法ポッドのみの保有であったため、対空兵器対策として高度1万フィート以上から目視照準で無誘導爆弾を投下する戦術に限られた上に異常気象による視界悪化から芳しい戦果を得ることはなかった。戦争終結までの約13,000回の出撃で8機のF-16がイラク側の対空兵器で撃ち落とされた。平均して1,636回の出撃で1機という出撃回数に対する被撃墜率は、低高度攻撃を主な任務としていたトーネードや、本来想定されていない戦線後方への航空阻止に投入された結果大きな損害を被ったA-10に比べて低かったが、機数と出撃回数の多さから損失数はトーネードの12機の次に多かった。 1992年11月27日にベネズエラで発生した、ウゴ・チャベスのクーデターでは、当時のベネズエラ政府側についた部隊のF-16が、2機のOV-10と1機のAT-27を撃墜した。 サザン・ウォッチ作戦においてアメリカ軍のF-16は1992年12月にイラク南部でMiG-25、1993年1月にイラク北部でMiG-23を、視界外交戦能力を持つAIM-120により撃墜した。 キプロス島の領有権を巡り対立関係にあるギリシャとトルコの間では、1960年代から偶発的な空中戦がたびたび発生しており、1996年10月10日にギリシャのミラージュ2000がトルコ空軍のF-16Dを撃墜したが、トルコ政府がこの事件を公表するまでギリシャは事件の発生を公式に認めていなかった。 中東での作戦と平行し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において1994年にセルビア空軍機との交戦と防空施設への攻撃に投入された。 コソボ紛争末期にNATO軍が本格的な介入を行ったアライド・フォース作戦では、MiG-29と交戦し、1999年3月24日にオランダ空軍のF-16AM、5月4日にアメリカ空軍のF-16CJがそれぞれ1機ずつを撃墜した。 2001年のアメリカ軍を中心とした多国籍軍のアフガニスタン侵攻や2003年のイラク戦争に投入された際の攻撃の多くはレーザー誘導爆弾やJDAMといった精密誘導兵器やHARMといったスタンドオフ兵器による対地攻撃だった。 2006年5月23日にはギリシャとトルコのF-16が空中衝突によって失われた。 2006年11月27日、地上部隊の戦闘支援中の米軍所属機がバグダード北西30km付近で墜落した。同年8月31日、オランダ軍のF-16がアフガニスタン南部で墜落した。 2011年リビア内戦におけるオデッセイの夜明け作戦においてギリシャ、イタリア、アラブ首長国連邦のF-16は初めての実戦参加となった。 2014年12月24日、生来の決意作戦における空爆に参加していたヨルダン軍所属機が墜落した。 2015年11月24日、シリアとトルコの国境付近においてトルコ領空を侵犯したとして、トルコ空軍のF-16が、シリアでの空爆作戦に参加していたロシア航空宇宙軍所属のSu-24を撃墜した。
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実戦参加
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「GAF-1 ヴィルコラク」の記事における「実戦参加」の解説
20XX年6月22日、ゴールデンアクス計画の最終段階であるサンフランシスコ襲撃作戦に於いて、ヴィルコラク遊撃隊の搭乗機として計4機が投入された。サンフランシスコの防衛に当たったPMC、マーティネズ・セキュリティーのM42飛行中隊第2飛行隊、通称アンタレス隊とサンフランシスコ上空で激しい空戦を繰り広げたが、投入された全機が撃墜され、襲撃部隊の壊滅によりサンフランシスコ襲撃作戦も失敗に終わった。
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実戦参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:54 UTC 版)
2022年ロシアのウクライナ侵攻の際、ズミイヌイ島(蛇島)に接岸していたセルナ級1隻が、2022年5月6日にウクライナのバイラクタルTB2ドローンの攻撃を受けて破壊された。Oryx(英語版)によるオープン・ソース・インテリジェンスに基づく分析では、船上に対空車両9A331 TLAR(9K331 トールM1対空ミサイル装備)が積載されていたが、これもドローン攻撃で破壊された。 5月12日にマクサー・テクノロジーズが撮影した衛星画像では、そのセルナ級が攻撃を受けた付近で海没している様子と、別のセルナ級1隻が海上で急旋回してミサイル攻撃と見られる白煙から逃れている姿が含まれていた。
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