【バビロン作戦】(ばびろんさくせん)
1981年、イラクのバグダッド近郊にて建設中だったオシラク原子炉に対し、イスラエルが実施した航空攻撃作戦。
イラクの核兵器製造を妨害する目的で実施された。
オシラク原子炉の正式名称はタンムズ1号といい、フランスから輸入されたオシリス型研究用原子炉である。
軽水炉ではあるが、様々な放射性物質を生成する目的で設計されたスイミングプール型容器を持つ。
イラクは原子炉建設の目的を「将来の石油資源枯渇に備えて」としていたが、核燃料として高濃縮ウランを必要とするなど発電炉としては合理的でなく、さらには使途不明瞭な劣化ウランを輸入していたこともあり、核兵器用プルトニウムを量産する目的で建設されたのではないかという疑惑が持たれた。
イラクが核武装する可能性に脅威を感じたイスラエルはモサドにより、輸出前の原子炉容器に対する破壊工作や、建設関係者の暗殺・恫喝などを試みたが、建設を止めることはできず、ついには軍による武力行使を決断した。
参加兵力は主力となる攻撃機のF-16が8機(各機Mk.84 2000ポンド弾を2発装備)、および護衛戦闘機のF-15が6機だった。
武装としてレーザー誘導爆弾が検討されたこともあったが、当時のF-16にレーザーを照射する機能が備わっておらず、また目標へレーザーを確実に照射できる場所まで工作員を潜入させることも困難であり、使用することができなかった。
無誘導爆弾で目標を確実に破壊するため、パイロット達には厳しい訓練が課せられた。
また当時最新鋭のF-16であっても航続距離がギリギリで、かつ空中給油機をまだ保有していなかったため、滑走路端でアイドリングする離陸直前の機体に給油をするという危険な手段もとられた。
シナイ半島東部のエツィオン空軍基地を発進した14機はサウジアラビアの領空を無許可で侵犯、続きイラク領空に入りバグダッド近郊で建設中だった原子炉に対し攻撃を加えた。
モサドがイラクの防空網を調べ上げたこともあり、奇襲が完全に成功したため反撃は僅かで、15発の爆弾が命中し原子炉は破壊された。
帰路は再びサウジアラビア領空侵犯。さらにヨルダン領空を侵犯し全機が無事に帰還した。
稼動前であったとはいえ史上唯一の原子炉に対する攻撃作戦であり、イスラエルに対し特に当事国のイラク、ヨルダン、サウジアラビアをはじめとして世界中から非難の声が上がった。
国際的に見て非合法な作戦であった一方、もしも原子炉の破壊に成功しなかった場合は湾岸戦争の際にイスラエルが核攻撃を受けたかもしれないとする説もある。
なおイラクはオシラクの後継として、小型研究炉のタンムズ2号を1987年に稼動開始しており、数グラムのプルトニウムを生産していたといわれる。
またそれとは別に、高濃縮ウランの生産設備を建設中であった。
これらの設備は湾岸戦争の際に多国籍軍の爆撃を受け、破壊されている。
イラク原子炉爆撃事件
(バビロン作戦 から転送)
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イラク原子炉爆撃事件(イラクげんしろばくげきじけん)は、1981年6月7日、イスラエル空軍機がイラク・タムーズに建設中だった原子力発電所を空爆・破壊した武力行使事件。イスラエル空軍側の作戦名はオペラ作戦(別名バビロン作戦)。
- ^ a b 筒井若水『国際法辞典』有斐閣、2002年、12頁。ISBN 4-641-00012-3。
- ^ (7)イスラエル機によるイラク原子炉爆撃に関する国連安全保障理事会決議487(仮訳) 外務省
- ^ ロジャー・クレイア 『イラク原子炉攻撃!』 高澤市郎訳、並木書房、2007年、ISBN 4890632158、52-53頁
- ^ ロジャー・クレイア 『イラク原子炉攻撃!』 高澤市郎訳、並木書房、2007年、ISBN 4890632158、37-39頁
- ^ ロジャー・クレイア 『イラク原子炉攻撃!』 高澤市郎訳、並木書房、2007年、ISBN 4890632158、49頁
- ^ “Free Article for Non-Members | STRATFOR”. web.archive.org (2010年12月7日). 2022年5月14日閲覧。
- ^ Ragaini, Richard C.『International Seminar on Nuclear War and Planetary Emergencies: 29th session.』World Scientific Publishing、2003年、33頁。
- 1 イラク原子炉爆撃事件とは
- 2 イラク原子炉爆撃事件の概要
- 3 イラクの核開発
- 4 イスラエルによる妨害
- 5 関連書籍
バビロン作戦
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1978年、ナフミは第107飛行隊の飛行隊長となった。その2年後、ナフミはイスラエル空軍で2番目にF-16を装備する飛行隊としてラマト・ダヴィド空軍基地で再編成された第110飛行隊の飛行隊長となった。 1981年6月7日、イスラエルはイラクの原子炉への爆撃作戦(オペラ作戦/バビロン作戦)を敢行し、ナフミは第110飛行隊から参加した4機のリーダーとして、この作戦を遂行した。 この作戦から数週間後の7月14日、レバノン上空で作戦を行っていたイスラエル空軍のA-4スカイホークの迎撃を試みたシリア空軍のMiG-21と、A-4の護衛を行っていた第110飛行隊所属機との間で空中戦が発生した。この戦闘でナフミはMiG-21を1機撃墜し、F-16で敵戦闘機を撃墜した世界初のパイロットとなった。
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バビロン作戦
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「イラク原子炉爆撃事件」の記事における「バビロン作戦」の解説
1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908kg)のMk-84爆弾を2発ずつ搭載したイスラエル空軍第110飛行隊、第117飛行隊所属のF-16戦闘機8機が、護衛の第133飛行隊所属のF-15戦闘機6機を伴いシナイ半島東部エツィオン空軍基地から飛び立った。同部隊はヨルダン及びサウジアラビアを領空侵犯してイラク領内に侵入した。この飛行ルートは、モサド諜報員の調査で判明していた対空砲と、レーダーの配置から割り出されたイラク側防空網の死角を利用したものであった。イスラエル空軍機は、午後5時30分前に原子炉付近に到達し、爆弾を投下した。使用されたのは誘導装置を備えない自由落下型の爆弾であった。投下された16発のうち1発は原子炉を直撃するものの不発弾で、また別の1発は隣接施設内に落下したが、14発が命中して原子炉は破壊された。この攻撃により警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。イスラエルの戦闘機部隊はイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が無事帰投した。 イラクは当初どこから攻撃を受けたか特定できず、交戦中のイランからの攻撃も疑っていた。翌日のイスラエル政府の声明により、事態が明らかとなった。イスラエル政府は、自国民の安全確保のための先制攻撃であり、原子炉稼動後に攻撃したのでは、死の灰を広い範囲に降らせる危険があったため急遽作戦を実行したと主張した。 イスラエルが国連安保理武力制裁決議といった正規の手続きを経ずにイラクを攻撃したことから、欧州の西側諸国を中心にイスラエルへの非難が起こったが、原子炉を製作していたイラクも非難された。
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