エストバキア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:57 UTC 版)
「エストバキア連邦」の記事における「エストバキア内戦」の解説
ユリシーズ衝突後、世界各国、特に隣国のエメリア共和国からの復興支援が始まったが、軍閥と呼ばれる武装勢力の地域支配、並びに軍閥間の抗争・略奪が横行し、支援は一時凍結された。2002年、エストバキア国内情勢の悪化を受けて、オーシア連邦を始めとした各国はエストバキア連邦に対する戦略物資輸出規制を開始。かつての友好国であったベルカからも兵器が購入出来なくなった。2007年4月、リエース中将率いるリエース派軍閥が旧政府に変わり「正統な政府」として旧首都を含むエストバキア西部を支配下に置いた。リエース派軍閥改め「リエース派統一戦線(LUF)」は復興政策を推進しており、その流れに同調してエメリア政府も凍結していた復興支援を再度進めた。だが、エメリアのLUFに対する復興支援はLUFと敵対する組織への弾圧に利用され、特にLUFの支配に対して反対の姿勢を示していた都市グレジーナにおいては、LUFによる弾圧によりおよそ20万人が死亡するという未曽有の大惨事を引き起こした。その弾圧を火種として各方面の軍閥が次々と蜂起し、エストバキアは6年もの長い内戦へと突入していった。内戦の中、グスタフ・ドヴロニク上級大将率いる東部軍閥は北部高地派を率いるアイザック・アレンスキー空軍中将と交渉し北部高地派を併合することに成功し、また諸島連合を撃破した。一方のLUFも自主関税同盟を撃破して併合し、こうしてエストバキアは東部軍閥とLUFに二分されることとなった。 2013年1月15日、数に勝るLUFは東部軍閥に対し陸と海から大規模攻勢を仕掛けるが失敗した。東部軍閥の勝利の要因は、エリートパイロット部隊であるシュトリゴン隊やヴァンピール隊の活躍の他、ベルカ戦争やベルカ事変によって発生したベルカや北オーシアからの亡命者を雇って傭兵としたこと、そしてベルカから亡命してきた技術者の協力で重巡航管制機「アイガイオン」を建造し戦場に投入できたことであった。アイガイオンによるニンバス攻撃により、国土の50%以上を支配下に置いていたLUFはわずか1週間で支配領域の約80%を喪失。最終的に同年10月29日、エメリア国境付近の戦闘でLUFは東部軍閥に決定的な敗北を喫し、中心人物のリエース中将が戦死したことで内戦は終結に向かっていくこととなる。 内戦終結後、エストバキアは主要軍閥の各軍管区司令官を務める将軍から選ばれる「将軍たち(The Generals)」と呼ばれる少数の指導者らによる軍事政権が樹立され、国内の再統一を行った。しかし統一後もユリシーズ落着の影響と内戦によって疲弊した国内をまとめることは困難を極め、インフラ復旧の遅延や、40%を超える失業率、独立を主張する武装勢力に悩まされることとなる。エメリアの有力シンクタンク・アマースト研究所による分析では、エストバキアに対する世界的な復興支援が実施されない限り、エストバキアが1990年代の経済水準に復興するまでには30年以上必要と報告している。 2013年11月、エストバキアの復興支援に尽力を注いでいたことで有名であったアイザック・アレンスキー外相が旧リエース派の武装勢力によって襲撃され翌12月2日に死亡、さらに2014年1月、エストバキア西部ビストークで復興援助物資の一時集積施設がまたもや旧リエース派に襲撃を受け、民間人27人が死傷する事件が勃発した。一方でこの襲撃後のエストバキア復興支援会議においてエストバキア側が、内戦発生の原因はエメリアの「無計画な支援」にあると言及し、両国間関係にひびが入り始めた。
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