エストフィル啓蒙時代(1750年 - 1840年)
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エストニアの教養あるドイツ人移民や地元のバルト・ドイツ人は、思想の自由や人類愛、平等といった概念を謳う啓蒙思想を取り入れた、ドイツの大学で教育を受けている。また、フランス革命は地元の上流階級に、小作農向け文学を創出する強力な動機を与えてゆく。 こうした中、アレクサンドル1世によってエストニア南部のリヴォニア県(ロシア語:Лифляндская губерния)で1816年に、次いで北部のエストニア県(ロシア語:Эстляндская губерния)で1819年にそれぞれ農奴が解放されると、かつての奴隷身分の処遇を巡り白熱した議論が浮上することになる。 バルト・ドイツ人は概ね、エストニア人が将来的にバルト・ドイツ人と同化するであろうと見なしたものの、エストフィル系の教養階級は、13世紀にデーン人やゲルマン民族に征服される以前の、エストニア人の古代文化を賞賛。こうしてエストフィル啓蒙時代は、宗教色の強いエストニア文学から大衆向けにエストニア語で書かれた新聞への過渡期を迎えてゆく。 特にヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの思想は、土着文化に価値を見出すバルト・ドイツ人インテリに多大なる影響を与えた。ヘルダーのヨーロッパおよびエストニアの民謡集に触発され、民間伝承を真理や自発性の自然な発露と捉えるようになったのである。その結果、学会を複数立ち上げ、学校教科書や新聞、叙事詩『カレヴィポエグ』のような文学作品を出版。 オットー・ヴィルヘルム・マッシングやガーリープ・メルケルはエストフィルの代表的人物で、マッシングは農民教育の支持者として知られ、1821年にエストニア語の週刊紙を発刊するに至る。 また、エストニア学会(エストニア語:Õpetatud Eesti Selts)が1838年タルトゥに設立。フリードリヒ・フェールマンや、フィンランドの叙事詩『カレワラ』をヒントに『カレヴィポエグ』を書いたフリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルトらが会員として参加した。
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