実戦使用阻止の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:41 UTC 版)
「レオ・シラード」の記事における「実戦使用阻止の試み」の解説
計画後半になると冶金研究所には時間的余裕が生じ、1945年に入るころには原爆の持つ社会的・政治的意味についての議論が研究者の口に上るようになっていた。1945年3月には、連合国のストラスブール占領によってナチスの原爆開発の脅威はないことが明らかとなった。これはシラードらにとって思いがけないことであり、シラードらにとって働いてきた目的を失わせるものであった。同じ頃東京大空襲など日本に対する大規模な焼夷弾爆撃が開始されており、原爆は日本に対して使用されるのではないかとの懸念が広がった。 シラードは3月後半に再びアインシュタインを通じてルーズベルトへ接触しようとした。機密保持条項のため計画外にいたアインシュタインには内容について一切告げられなかったが、これにより大統領への紹介状を得て、シラードはそれに付す覚書を執筆した。覚書では、軍が「この爆弾の対日戦争中での使用を考慮している」が、これは「合衆国が世界において占めてきた強力な地位の破壊に導く道にそって…動いている」ものだと述べ、戦後の核開発競争を避けるために科学者との協議を行うことを訴えている。アインシュタインの紹介状によってシラードは大統領夫人のエレノア・ルーズベルトとの面会の約束をとりつけることができたが、この望みが果たされるより先の4月12日に、ルーズベルトの急死のニュースが告げられた。 トルーマン新大統領への接触工作をはじめからやり直し、5月末に後の国務長官ジェームズ・F・バーンズとの会談にこぎつけた。ここでシラードは、現在の状況ではなく数年後に予測される状況に基づいて原爆に関する決定を行うべきであるとした上で、核時代におけるそうした将来予測は科学者こそが正確に評価できるものであり、爆弾に関する政治的決定に科学者の意見を尊重することを訴えた。そして、実際原爆を日本に対して使用し原爆の存在が明らかになれば、数年でソ連も原爆を開発し両国を破滅させかねない核開発競争に突入するだろうと主張した。バーンズはソ連が短期で核兵器を開発するとは理解せず、むしろ原爆の使用がアメリカの優位を誇示しソ連を扱いやすくすると考えていたため、この主張を受け入れることはなかった。また爆弾を使用しなければ20億ドルを要して何を得たのか議会に説明できないだろうと主張した。また直後にワシントンでロバート・オッペンハイマーと会ったものの、原爆の使用についても戦後の核管理についてももの別れに終わっている。 このシラードの独断専行的なバーンズ訪問はグローヴズの怒りを買い、冶金研究所に混乱をもたらすことになった。研究所指導者のコンプトンは、ジェームズ・フランクを委員長とし、シラードも参加した委員会で科学者の観点から原爆の政治的影響を議論し報告することとした。報告書はフランクのメモを元に、その長年の同僚であったユージン・ラビノウィッチにより起草された。シラードの提案によって、原爆の実戦使用の前にデモンストレーションを行うべきだというアイデアも盛り込まれた。この「フランク・レポート」は6月11日に原爆使用の決定を行う「暫定委員会」(Interim Committee) のスティムソン陸軍長官に提出されたが、すでに行われていた日本への投下の決定に影響を与えることはできなかった。
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