東海区水研時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:36 UTC 版)
大東亜戦争が終わり、1946年(昭和21年)5月、日本に引き揚げた。戦災により貝類標本とともに横浜の自宅および松山の生家は消失し、家族は神奈川県厚木に疎開していた。ヒザラガイ類等同定を依頼されていた微小貝類標本・参考文献等は全て差し押さえられ、新政権下で上海自然科学研究所に集められた。ヒザラガイの論文については、甥の花井に抜刷りに贈っていたものを返してもらい、用いた。庸は翌22年4月に農業技官となり水産試験場に勤めることになったが、改組されて東海区水産研究所となった。1948年(昭和23年)、戦前に原稿はできていたものが遅れて刊行され、概説と15種のヒザラガイ類および外地産の貝類を多く収録した『増補改訂 日本動物図鑑』を出版した。水産研究所は「東海区」と行動範囲が限られるようにはなったが、それでも八丈島のほかに宮崎県のチョウセンハマグリの増殖、浜名湖アサリ貝毒事件等で度々国内各地に出張し浅海増殖の技術向上に努め、1950年(昭和25年)には増殖部長となった。1951年(昭和26年)には平瀬の貝類図鑑を増補改訂したものが刊行された。
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