日本の単独事業へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 19:53 UTC 版)
1928年以降日中両国の共同事業としての東方文化事業は事実上挫折し、日本側単独の事業に移行したが、中国現地における事業がこれにより完全に頓挫したわけではなかった。外務省文化事業部は、北京と上海に比較的小規模な図書館を設立する準備を進め、1936年12月に「北京近代科学図書館」、翌1937年3月に「(在上海)日本近代科学図書館」を開館し、日本の自然科学や産業を中心とする図書を蒐集し広く市民の閲覧に供した。しかし中国政府はこれらを日中共同の機関とは認めず積極的に事業に協力しようとはしなかった。日本側関係者の中には、例えば上海自然科学研究所所長として中国人スタッフを多数採用し、日中共同での研究活動をあくまで維持しようとした新城新蔵のように、個人レベルで善意的な態度を示した人も少なくはなかったが、総体的には中国側から「文化帝国主義」とみなされ、結果として対日感情の緩和という日本側の当初の事業目的は達成されなかった。日中戦争が始まった翌年の1938年、東方文化事業は外務省から興亜院の管掌に移されて予算は大幅に削減、以後諸施設は国策遂行の機関としての役割を押しつけられるようになった。日米開戦後の1942年には外務省文化事業部も不要不急として廃止となった。
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