日本側キャスティング
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「トラ・トラ・トラ!」の記事における「日本側キャスティング」の解説
20世紀フォックスは、黒澤プロと契約した出演者は白紙に帰ったと判断し、監督の人選と並行して職業俳優の中から選ぶという前提条件で秘かに人選を進めた。日本側出演者は黒澤監督が決めた中から、職業俳優の起用が決定していた者は残留を希望したケースに限り、再起用が検討された。黒澤が決めた素人俳優は全員役を降ろし、あらためてプロの俳優たちを起用することになった。それまで"黒澤作品"だからという理由で製作陣のギャラは『007は二度死ぬ』日本ロケの五分の一に抑えられ、俳優についても相当安いギャラと条件を飲まされていたが、黒澤作品でなくなったことで、ギャラは普通に要求され、俳優へのギャラは当初の倍になるだろうと20世紀フォックスは予想した。 20世紀フォックスは、山本五十六長官役に最初は辰巳柳太郎を挙げたが、明治座の4月公演があり出演は不能。次に芦田伸介に交渉したが、こちらもスケジュールの都合がつかず出演を辞退。続いて山村聡が有力候補に絞られ、1969年2月24日、山村の横浜の自宅に舛田監督と高木プロデューサーが訪問し出演を申し入れ、翌2月25日にエルモが山村とホテルオークラで会い、「出演日程を調整する」とこれまでにない譲歩を見せた。当時、山村は本作の撮影場所の一つでもある東映京都で、東映制作の連続時代劇ドラマ『あゝ忠臣蔵』で大石内蔵助役で出演が決定し、1969年3月頃から『あゝ忠臣蔵』での山村の出番が増えると予想されたことから、スケジュール的には厳しいと予想された。しかし山村は『トラ・トラ・トラ!』の台本を読み「日本側に忠実に書いてあり、国辱的でもなく役柄に不満はない」と出演に意欲を燃やし、「どうしても出演したい」と東映と相談し『トラ・トラ・トラ!』の出演を承諾した。山村は専用のかつらを装着し『あゝ忠臣蔵』と同時並行で撮影に臨んだ。山村が山本五十六に扮して長門のオープンセットの甲板に立ったのは1969年3月5日。 山村の起用については掛け持ち出演であり、日本側では珍しくないもののハリウッドでは契約関係等でご法度ということになるため舛田が20世紀フォックス側を説得した。 源田実中佐役は降板した山崎努の後、田宮二郎を候補に交渉を続けた。田宮に正式に出演オファーがあったのは、米国のエージェントCMAと契約のため田宮がラルフ・ネルソン監督と渡米する直前で、ネルソンが田宮のマネージャーとして応対に当たり、出演料一週間260万円(三週間出演)、タイトルの序列は、日本側スターでは山本五十六に次ぎ、メーキャップ要員など二人を付けるなどの条件を付けたが、これが悪印象を与えて話が流れ、1969年2月25日、正式に三橋達也に交代した。三橋も出演オファーの話を聞いた際、黒澤監督との関係もあり困惑したが知人から「あの事件のことは君には一切関係ない」と言われ出演を快諾した。また黒島亀人先任参謀役には中村俊一が決まった。 その他、黒澤監督時はキャスティングが決定していなかった真珠湾攻撃時の飛行隊長淵田美津雄中佐役は1969年2月24日、田村高廣に決定。 山村と田村は鹿島建設の出資、東映配給による超大作映画『超高層のあけぼの』にそれぞれ出演が決定し、田村は第一部の主役だったが、『トラ・トラ・トラ!』との掛け持ちは不可能の理由で突如降板した。 南雲忠一海軍中将役の東野英治郎、三川軍一海軍中将役(完成作品では山口多聞海軍少将役に変更)の藤田進は引き続き新体制後の現場に参加した。また近衛公爵役の千田是也、駐米大使館書記官役の久米明らも新体制後も撮影を続けたが、黒澤組の撮影したシーンはすべて撮り直された。
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