近代の商工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:18 UTC 版)
幕末期以降、市の建てられる場所が城下町北部の上五ヶ町から南部の鍛治町などを中心とした下五ヶ町へと移動し、特に明治・大正期には志義町を中心に市が建てられた。 この時代は川越と周辺農村部との特権関係は無くなったものの、幕末から農村部の穀物・織物は主要な産業であり、両者の関係はより強くなっていった。1900年の川越商業会議所の調査によると、卸売商428戸のうち穀商が57戸を占め、また1912年の調査では、砂糖を含む穀物が34.7%、肥料及び油が11.7%と、農村向けの商品が半数を占めた。 また織物の取引もよく行われた。江戸時代から、「川越ななこ」や「川越絹平」、「川越唐桟二子織」をはじめとする「川越織物」は作られてきたが、こと明治に入って以降は外国との貿易や政府の奨励もあってより栄えていくこととなった。別珍とコール天を主とした織物産業が盛んになり、特に高階村一帯では「別珍村」と呼ばれるまでに至った(後述)。 川越町でも1910年には川越織物市場が開設されたほか、川越織物市場組合・川越織物市場株式会社が設立された。また1907年には埼玉県立川越染織学校(現在の埼玉県立川越工業高等学校の前身)が設立され、染織科と図案科が設けられた。 その他、石川組製糸の第三工場が川越に設けられるなど、現在の川越市内に570の座繰が設けられた製糸業や、桐箪笥、そうめん、川越いもなどが特産品であった。 1878年には埼玉県初にして唯一の国立銀行である第八十五国立銀行(後の埼玉銀行)が綾部利右衛門らの尽力によって設立された。また1880年には川越銀行が設立されるも、1888年には経営破綻している。
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