近代の司教区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:09 UTC 版)
最終的に司教領はフランスに併合され、他のベルギーの州と同じ運命をたどった。司教区は革命を生き延び、1801年にナポレオンと教皇ピウス7世の間のコンコルダートにおいても確認された。新たな司教区は1802年4月10日に設立され、ウルト県及びムーズ・インフェリウール県に加え、フォレ県(フランス語:Forêts département)のいくつかの教区を含んでいた。1818年には、プロイセンへの割譲によりいくつかの小郡を失った。ネーデルラント連合王国の成立後、司教区はリエージュとリンブルフより構成された。1838年5月6日、ファン・ボメル司教(Mgr Van Bommel)はリエージュ司教区を2つの司教区に分割した。1839年、司教区はリンブルフの教区を失った。ここには、1967年にオランダ語を話す人々により、新たなハッセルト(Hasselt)教区が創立された。現在のリエージュ司教区は、メヘレン=ブリュッセル大司教区に属しており、543人の司祭による525の教区(parish)からなり、2003年時点で1,023,506人の人口を持つ、そのほとんどがフランス語を話すワロン人で、ドイツ語を話すドイツ人は少数派である。現在司教区の領域はリエージュ州と同一である。
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