近代の労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
産業革命期には製糸、紡績業が中心産業となるが、その労働力の担い手は女性であった。官製の富岡製糸場は開業にあたって必要とされた300人が集まらず、15歳から30歳の女性を集めるよう各県に割り当てた。こうした労働は過酷で、多くの紡績工場では高価な紡績機を効率よく運用するために昼夜2交代で24時間休みなく動かそうとした。女工は非衛生な寄宿舎にいれられ、賃金は男工の半分でイギリス労働者の26分の1であった。女工は幼くして地方から身売り同然に送られて前借金と契約によって縛られたが、契約が満了して帰郷しても義務教育を終えていないことから結婚に支障をきたすこともあった。やがて製糸の輸出量は世界一位となるが、その陰には女性労働者の犠牲があった。こうした貢献にもかかわらず、雇用や賃金の男女格差の見直しがされるのは1960年代以降となった。 日露戦争以降に資本主義が発達すると、女性の職域は拡大した。女性教員、女医、産婆、速記者、看護婦、電話交換手、記者の他、デパート店員や音楽教師、タイピスト、ウェイトレスが登場する。戦争で夫を亡くした女性が就職するなどで女性就労者が増えて「職業婦人」と呼ばれるようになり、最も女性が多い教員では1918年に女性は全体の30%を越えて5万人に達していた。しかし女性は男性の補助として扱われることが多く、賃金は男性の60%から80%に抑えられていた。このように女性が就職するようになると良妻賢母の価値観との関係で議論が起こる。母性保護の規定がなかったため結婚あるいは出産育児との両立で女性が悩むようになり、1908年には女性教員の要望により長野県で有給2か月の産休が認められ、1922年に文部省は産前2週間、産後6週間の休養が認められる。また工場法では産休9週間、1日2回30分の哺乳時間が承認される。1925年には全国婦人協議会が設立され、6時間労働制、夜業・寄宿の禁止、有給8週間の産休などを命題に掲げた。
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