神祇官復興運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:03 UTC 版)
西南戦争後、薩摩藩を中心にした士族は自らの氏神を奉斎する神社の経営に注力を掲げるようになってきた。そして、それに伴い神職の自由民権運動として出現した。以下では、その概要のみを記述する。 1887年6月に九州の神職が西海連合会を組織して、各地の神道人に訴えると強い共感を呼び起こし、全国的な神社神主の組織運動として現れた。1887年11月17日には、皇典講究所に各府県の代表が会合し、各委員が神官同士会を組んで神祇官復興運動は全国的に開始された。 この理由としては、葦津珍彦は 神道を維新当初の状況に戻すためには、少なくとも国家の機構を改めて、神祇官を復興し、そこを拠点として『神社は国家の祭祀なり』との精神と制度を恢弘しなければ、神道も日本精神も亡ぶるとの危機感が生じた と説明する。また、1890年3月には、神道も宗教に含まれるという噂が神道界に流れた。 そして、1890年代に全国的規模で展開する神祇官興復運動の背景には、神社の「国家の宗祀」性の形骸化を促進する政府に対する、神職や神道関係者の「危機」感がある。この宗教条例の噂が立つと、府県社以下のいわゆる民社神職の教導職返上による神祇官の興復を果たす為の運動が本格化したのである。 この運動は一応の成功を収め、1899年4月26日内務省の社寺局の一課に過ぎなかった神社課を神社局に格上げすることとなった。 なお、1913年6月13日には、神社以外の宗教を所管する内務省宗教局は廃止され、文部省宗教局へ移管された。
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